「古河城」の版間の差分

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== 概要 ==
古河城の起源は、[[平安時代]]末期あるいは[[鎌倉時代]]初期に、[[下河辺行平]]が古河の立崎(竜崎)に築いた城館とされている。[[室町時代]]には、[[古河公方]]・[[足利成氏]]が本拠とし、以後、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の関東における中心の一つとなった。[[江戸時代]]には、多くの[[譜代大名]]が入れ替わりで城主を務め、近代城郭として整備された。[[古河藩]]庁が置かれ、行政機能を担うとともに、[[征夷大将軍|将軍]]の[[日光社参]]時の宿として、あるいは[[江戸城]]の北方の守りとしても機能した。[[明治時代]]初期の[[廃城令]]により廃城となり、明治末に開始された[[渡良瀬川]]の改修工事により、残された城跡も大半が消滅した。渡良瀬川の堤防上、[[三国橋 (渡良瀬川)|三国橋]]と[[新三国橋 (国道354号)|新三国橋]]の中間付近に「古河城本丸跡」と書かれた標柱石碑古河史楽会作成の明板設置されている。(河川占有許可期間終了のため2016(2018123現在、説明板設置。以前撤去されている。標柱のみ
 
古河城は渡良瀬川の河畔にあり、城の位置付けは人と川との関わりに影響されてきた。
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==遺構==
[[File:Koga-joushi.png|right|thumb|360px|現在の古河城遺構分布]]
[[画像:Koga_castle_sakuramachikuruwa_dorui.jpg|right|thumb|240px|桜町曲輪土塁(獅子ヶ崎土塁)]]
[[画像:Koga_castle_kannonjikuruwa_dorui.jpg|right|thumb|240px|観音寺曲輪土塁(頼政神社付近)]]
[[File:Koga-joshi-aerophotograph.png|right|thumb|240px|河川敷部の古河城痕跡(1974年)・{{国土航空写真}}]]
明治末に開始された渡良瀬川改修事業の際に、主要部分は[[堤防]]や[[河川敷]]に変わった。堤防の市街地側には、観音寺曲輪の大半・桜町曲輪の半分・百間堀等の水堀が残されたが、現在はこれらも宅地等に変わり、ほとんどの遺構は消滅した。本丸や二の丸等の主要部分は、渡良瀬川に架かる三国橋と新三国橋にはさまれた堤防・河川敷に相当する。市街地では、観音寺曲輪は錦町、桜町曲輪は桜町におおむね相当する。<ref name = hakubutsukan/>
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城の主要部があった河川敷部分には、削平された曲輪と埋め立てられた堀の輪郭が地表のわずかな色調の変化として残っており、航空写真により確認できる。
 
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File:古河城跡・本丸跡碑.jpg|本丸跡碑
File:古河城跡・本丸跡碑周辺.jpg|本丸跡碑周辺(背景に新三国橋)
File:古河城跡・本丸跡河川敷.jpg|本丸跡河川敷(マウンド付近が本丸跡)
File:古河城跡・桜町曲輪跡堤防上から三国橋と渡良瀬川.jpg|桜町曲輪跡堤防上から望む三国橋と渡良瀬川
[[画像File:Koga_castle_sakuramachikuruwa_dorui.jpg|right|thumb|240px|桜町曲輪土塁(獅子ヶ崎土塁)]]
[[画像File:Koga_castle_kannonjikuruwa_dorui.jpg|right|thumb|240px|観音寺曲輪土塁(頼政神社付近)]]
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== 作品 ==