「平田篤胤」の版間の差分

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その後、[[伊勢神宮]]を参詣し、ついで[[松阪市|松阪]]の[[本居春庭]](宣長の子)を訪れ、[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]に念願の宣長の墓参を果たした<ref name=tahara1060/>。墓前に「をしへ子の千五百と多き中ゆけに 吾を使ひます御霊畏し」の歌を詠んだが、これは自分こそが国学の正統な後継者であることの自負を示したものである。松阪では鈴屋本家を訪れ、本居春庭と会談するなどして、[[11月19日 (旧暦)|11月19日]]、江戸に戻った。
 
文政7年([[1824年]])、門人の碧川篤眞が娘千枝と結婚して婿養子となり、平田銕胤と名乗って篤胤の後継者となった。控えめ性格の銕胤は篤胤の活動をよく支えた。
 
この時期以降の篤胤『葛仙翁伝』『扶桑国考』『黄帝伝記』『三神山余考』『天柱五嶽余論』などの著作があり、とりわけ、[[道蔵]]をはじめとする[[シナ]]や[[インド]]の経典類の考究に力を注いでいる<ref name=koyasu1/>。文政9年([[1826年]])成立の『印度蔵志』や文政10年([[1827年]])成立の『赤県太古伝』などがその代表である<ref name=koyasu1/>。他に『葛仙翁伝』『扶桑国考』『黄帝伝記』『三神山余考』『天柱五嶽余論』などの著作があり、これらは日本の古典や古伝承の研究をフィールドとするという意味での国学の概念を越え出ている<ref name=koyasu1/>。インドや中国の古記文献に関する研究が、篤胤の著述のかなりの部分を占めることは、他の国学者に見いだしえないところである<ref name=koyasu1/>。
 
=== 晩年の暦学研究、江戸追放 ===
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天保12年([[1841年]])[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]、[[江戸幕府]]の暦制を批判した『天朝無窮暦』を出版したことにより、幕府に著述差し止めと国許帰還(江戸追放)を命じられた<ref name=jinmei475/>。激しい儒教否定と尊王主義が忌避されたとも、尺座設立の運動にかかわったためともいわれる<ref name=jinmei475/><ref name=tahara1060/>。同年[[4月5日 (旧暦)|4月5日]]、秋田に帰着し、[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]、久保田藩より15人扶持と給金10両を受け、再び久保田藩士となった<ref name=jinmei475/><ref name=tahara1060/>。江戸の平田塾[[気吹舎]]の運営は養子の平田銕胤に委ねられた。
 
篤胤は久保田城下に住み、邸宅もあたえられ、門弟たちに国学を教えた門人の数は秋田帰還後も増え続けた<ref name=kinsei223/>。門人の数は秋田帰還後も増え続け、帰藩してからも70人余に達している<ref name=kinsei223/>。おり、そのなかには[[藩校]][[明徳館 (久保田藩)|明徳館]]の和学方取立係であった[[大友直枝]]もいた<ref name=kinsei223/>。篤胤は江戸に帰還すべく運動したが、それは成功せず、『古史伝』などの著作は未完のまま、失意のうちに天保14年([[1843年]])9月11日、久保田城下亀ノ丁で病没した<ref name=jinmei475/><ref name=kinsei223/><ref name=tahara1060/>。68歳。法号は常行院東華大壑居士<ref name=jinmei475/>。辞世の句は「思ふこと 一つも神に つとめ終へず 今日やまかるか あたらこの世を」。この時点で門人は553人を数えた<ref name=jinmei475/>。
 
篤胤死去後の[[弘化]]2年([[1845年]])[[3月 (旧暦)|3月]]、白川神祇伯は篤胤に「神霊能真柱大人」の称号(のちに「霊神」に改称)を贈った<ref name=kinsei223/>。また、没後100年となった[[1943年]]([[昭和]]18年)[[8月21日]]には従三位が追贈されている。