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*768年7月 : [[#官位制度|一吉飡]](7等官)大恭・[[#官位制度|阿飡]](6等官)大廉の兄弟の反乱。貴族連合体制復活派の反乱とみられる。王都を33日間包囲するが、王の軍隊が平定した。
*[[770年]]8月 : [[#官位制度|大阿飡]](5等官)の[[金融]]の反乱。金融は[[金ユ信|金庾信]]の後裔であり、中央貴族に対抗する地方勢力を代表する。律令体制推進派と見られる。
*[[775年]]6月 : 伊飡の[[金隠居]]の反乱。元侍中の金隠居は金融の反乱の後に退官しており、後に反乱を起こした。貴族連合体制復活派の反乱と見られる。
*775年8月 : 伊飡の[[廉相]]、侍中(現職)の[[正門]]が反乱を企てたことが発覚して誅滅された。正門は金隠居の退官の後に侍中に就任しており、律令推進派の反乱と見られる<ref>貴族連合体制復活派の反乱としていた井上秀雄も、廉相・正門らは律令推進派とする見方にのちに転じている。→井上訳注1980 p.315 注65</ref>。こうした政治的対立の中で[[776年]]正月には新羅政府は教書を出し、律令体制を強固に推進した景徳王が唐風に改名した百官の名称を、旧来のものに戻した。貴族連合体制派への譲歩であったと見られるが、律令体制推進の政策を廃止しようとするものではなく、同年3月には倉部(徴税)の史(3次官)を8名増員している。名目的には律令体制の推進を控えながらも、国家財政や人民支配の強化という点においては貴族層・官僚層の間には共通の意識が持たれていたことの現われと考えられている<ref>井上1972 pp.229-231.</ref>。