「平田篤胤」の版間の差分

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=== 娘千枝と養子銕胤 ===
文政7年([[1824年]])[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]、千枝が、[[伊予国]][[新谷藩]]の碧川篤真と結婚した。碧川篤真は篤胤二大高弟のひとり[[碧川好尚]]の実兄で、平田家の養嗣子となり[[平田銕胤]](鐵胤)を名乗った。千枝は才女として知られ、一度目に通したものはすべて諳んじ、父篤胤の著述については、何を尋ねてもすらすら答えることが出来たという。[[英語]]もたしなみ、文章も巧みで文字も美しく、父の詠んだ[[和歌]]を[[短冊]]に代筆している。千枝はのちにおてう(お長)に改名し、また晩年には母の名である織瀬を受け継いでいる。[[1888年]]([[明治]]21年)3月没。臨終に際しては[[正座]]して周囲に臨終の[[挨拶]]を行い、「それでは」と床についてそのまま帰幽したと伝わっている。
 
{{main|平田鐵胤}}
碧川篤真は篤胤二大高弟のひとり[[碧川好尚]]の実兄で、平田家の養嗣子となり[[平田銕胤]](鐵胤)を名乗った。銕胤は内蔵介のち大角とも名乗り、[[1868年]](明治元年)には[[神祇官]]判事に任じられ、[[明治天皇]]の侍講となり、ついで大学大博士に進み、のち大教正となった。篤胤の死後は家学を継承し平田学を普及させ、また、先代の[[負債]]を清算した。著書に『祝詞正訓』がある。[[1880年]](明治13年)[[10月15日]]に没した。
 
=== 孫 ===
{{main|平田延胤}}
千枝と銕胤のあいだには[[平田延胤]]・[[平田胤雄|胤雄]]の子があった。延胤は、文政11年(1828年)生まれで幕末期に活躍し、久保田藩主に「飛龍回天」の建白をおこない、討幕の立場をとるよう進言した人物。平田派3代目として嘱望されたが、父母に先立って明治5年([[1872年]])1月に死去した。胤雄は、祖父篤胤の神格化運動にたずさわった。
 
==== その他の子孫 ====
延胤以降は、婿養子の[[平田盛胤]]([[美濃国]]出身。旧姓[[戸沢氏|戸沢]]。[[東京帝国大学]]卒)、[[平田宗胤]]と続き、代々、[[神田明神]]の神職を務めた。宗胤には子がおらず、[[1973年]](昭和48年)に死去、平田宗家は絶家となった。篤胤の子孫としては他平田神社の宗家6代目当主[[米田勝安]]が知られる。米田には、[[荒俣宏]]との共著『よみがえるカリスマ平田篤胤』([[2000年]]、[[論創社]]刊)がある。
 
=== 交友関係 ===