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『三国史記』の新羅本紀は「辰韓の'''斯蘆国'''」の時代から含めて一貫した新羅の歴史としているが、史実性があるのは4世紀の第17代[[奈勿尼師今|奈勿王]]以後であり、それ以前の個々の記事は伝説的なものであって史実性は低いとされる。
 
6世紀中頃に半島中南部の[[伽耶|加羅]]諸国を滅ぼして配下に組み入れた。唐が[[660年]]に百済を、[[668年]]に高句麗を滅ぼした時には、新羅は唐軍指揮下で参軍した([[羈縻政策|羈縻支配]])。その後、唐が[[吐蕃]]と戦争を始めると、反乱を起こして旧百済領全土と旧高句麗の南半分を統治する唐の役所を襲撃して官員を殺戮し([[唐・新羅戦争]])朝鮮半島の中南部を統一した。首都はほぼ金城(現在の[[慶尚北道]][[慶州市]])にあった。9世紀末には新羅の国力は衰え、百済・高句麗の再興を図る勢力が出て[[後百済]]・[[後高句麗]]との鼎立による[[後三国時代]]となり、最終的には後高句麗から起こった[[高麗]]に帰順して新羅は滅亡した。
 
新羅の歴史は、『[[三国史記]]』新羅本紀・[[敬順王]]紀に記されるように、始祖から第28代[[真徳女王]]末年([[654年]])までを上代、第29代[[武烈王]](金春秋)即位から第36代[[恵恭王]]末年([[780年]])までを中代、第37代[[宣徳王]]から滅亡までを下代と分類する。