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'''ブリャチスラフ・ダヴィドヴィチ'''({{lang-ru|Брячислав Давидович}}、12世紀初頭生 - 1129年もしくは1130年没。一説には1160年代から1180年以前に死去)はポロツク・イジャスラフ家[[:ru:Изяславичи Полоцкие|(ru)]]出身の人物(おそらく[[ダヴィド・フセスラヴィチ]]の子)である。[[イジャスラヴリ公]](在位:1127年 - 1128年
 
ブリャチスラフに関する最初の言及は、『[[イパーチー年代記]]』の1128年の項における記述である。すなわち、[[キエフ大公]][[ムスチスラフ1世|ムスチスラフ]]が[[ポロヴェツ族]]に対する遠征への参加を[[ポロツク公国]]の諸公に命じたところ、ブリャチスラフを含む諸公はこれを拒絶した。そのため、ブリャチスラフは配下の[[ドルジーナ]]らと共に、[[ルコームリ]]で[[イジャスラフ2世|イジャスラフ]]に捕縛された。というものである。また年代記には、ブリャチスラフがその父に対し、南ルーシの諸公への攻撃を進言する記述があるが、ここに父の名は記されていない。歴史家の大半は、文脈より、ブリャチスラフの父を[[ダヴィド・フセスラヴィチ]]とみなしている。さらにO.ラーポフ[[:ru:Рапов, Олег Михайлович|(ru)]]は、ブリャチスラフは[[ロゴジュスク公]]並びにイジャスラヴリ公であったとみなしている。