「中野忠晴」の版間の差分

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戦後は自身が喉を傷めたこともありステージから身を引き、[[キングレコード]]に移籍、主に作曲活動を中心にして当時の人気歌手である[[江利チエミ]]、[[松島詩子]]、[[若原一郎]]、[[三橋美智也]]、[[春日八郎]]らに楽曲を提供し続けた。作品としては三橋美智也が歌った「達者でナ」「赤い夕陽の故郷」。若原一郎の「おーい中村君」。松島詩子「喫茶店の片隅で」などがある。
 
その後も歌手として再びステージに復帰することなく<ref>戦後のキングレコード時代には、移籍直後の[[1952年]][[6月]]新譜でヤング中野名義による「山小舎に月が登れば/アリゾナのバンジョー弾き」の1枚2面が歌手として発売された唯一のレコードである。また、ラジオでは、[[1955年]][[3月20日]]放送の「NHK歌の三十年」というラジオ番組で、[[旅がらす]]を歌ったのが最後と思われる。既にこの時中野は人前で歌うことがなくなっていたが、この時は請われて例外的に歌ったという。</ref>[[1970年]][[2月]][[肺癌]]のため60歳で永眠する。
その後も歌手として再びステージに復帰することなく[[1970年]][[2月]][[肺癌]]のため60歳で永眠する。
 
なお、戦前期には[[1933年]]暮れ頃のタイヘイレコードでのアルバイト吹込みで「牧忠夫」、「水田潔」という別の芸名、コロムビアでも作曲や作詞活動で「柏木晴夫」、「野瀬宇多男」という[[ペンネーム]]を用いて活動していたこともある。