「平田篤胤」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎幽冥論: 画像追加
出典追加、加筆
106行目:
天保5年([[1834年]])、篤胤は水戸の史館への採用を願ったが成功しなかった<ref name=tahara1060/>。天保8年([[1837年]])、[[天保の大飢饉]]のなか、かつての塾頭[[生田万]]が[[越後国]][[柏崎市|柏崎]]で蜂起して敗死している([[生田万の乱]])。天保9年([[1838年]])、故郷久保田藩への帰参が認められた。また、この頃から篤胤の実践的な学問は地方の好学者に強く歓迎されるようになり、門人の数も大幅に増加した<ref name=jinmei475/>。
 
天保12年([[1841年]])[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]、西洋の[[グレゴリウス暦]]に基づいて[[江戸幕府]]の暦制を批判した『天朝無窮暦』を出版したことにより、幕府に著述差し止めと国許帰還(江戸追放)を命じられた<ref name=jinmei475/>。激しい儒教否定と尊王主義が忌避されたとも、尺座設立の運動にかかわったためともいわれる<ref name=jinmei475/><ref name=tahara1060/>。同年[[4月5日 (旧暦)|4月5日]]、秋田に帰着し、[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]、久保田藩より15人扶持と給金10両を受け、再び久保田藩士となった<ref name=jinmei475/><ref name=tahara1060/>><ref group="注釈">実際には借り上げの天引きによって、14人扶持、8両にすぎなかった。[[#今村|今村(1969)p.144]]</ref>。江戸の平田塾[[気吹舎]]の運営は養子の平田銕胤に委ねられた。
 
篤胤は久保田城下に住み、邸宅もあたえられ、門弟たちに国学を教えた<ref name=kinsei223/>。門人の数は秋田帰還後も増え続け、帰藩してからも70人余に達しており、そのなかには[[藩校]][[明徳館 (久保田藩)|明徳館]]の和学方取立係であった[[大友直枝]]([[平鹿郡]][[羽宇志別神社]]社家)もいた<ref name=kinsei223/>。篤胤は江戸に帰還すべく運動したが、それは成功せず、『古史伝』などの著作は未完のまま、失意のうちに天保14年([[1843年]])9月11日、久保田城下亀ノ丁で病没した<ref name=jinmei475/><ref name=kinsei223/><ref name=tahara1060/>。68歳。法号は常行院東華大壑居士<ref name=jinmei475/>。辞世の句は「思ふこと 一つも神に つとめ終へず 今日やまかるか あたらこの世を」。この時点で門人は553人を数えた<ref name=jinmei475/>。
 
篤胤死去後の[[弘化]]2年([[1845年]])[[3月 (旧暦)|3月]]、白川神祇伯は篤胤に「神霊能真柱大人」の称号(のちに「霊神」に改称)を贈った<ref name=kinsei223/>。また、没後100年となった[[1943年]]([[昭和]]18年)[[8月21日]]には従三位が追贈されている。
359行目:
 
国学者の[[伴信友]]とも交流があった。『霊能真柱』刊行後、篤胤は信友あて書簡のなかで、駿河より金1両の原稿料を得たが、本を借りるためにそれを充当せねばならず、風呂へも行けない状態であり、首をくくろうとも思うが、それもかなわいと愚痴をこぼしている<ref name=kinsei223/>。また、[[備中国]]在住の著名な国学者[[藤井高尚]]が『伊勢物語新釈』を執筆しているとき、『[[伊勢物語]]』第14段の「夜も明けばきつにはめなでくたかけの」の歌の「きつ」の解釈に苦しんでいたが、信友より篤胤のユニークな解釈を伝えられた結果、篤胤の説を採用するということがあった<ref name=rekihaku/>。篤胤は伴信友を君兄と呼んで慕ったが、のちにすれ違いを生じるようになって決別した。
 
久保田帰還後は、大友直枝や[[吉川忠行]]([[吉川忠安]]の父)など秋田在住の国学者と親交を結んだ<ref name=imamura144>[[#今村|今村(1969)pp.144-147]]</ref>。
 
== ゆかりの地・墓所 ==
376 ⟶ 378行目:
 
=== 秋田 ===
篤胤の出生地は久保田城下の中谷地町(現、秋田市[[中通 (秋田市)|中通]]四丁目)であったが、生家である大和田家はのち旧亀ノ丁新町(秋田市中通六丁目)にうつり、同地には[[文久]]3年([[1863年]])、久保田藩士[[小野崎通亮]]・[[吉川忠安]]らによって国学塾雷風義塾が創設された<ref name=imamura144/>
 
秋田市[[千秋公園]](旧久保田城)の[[弥高神社]]には、佐藤信淵とともに祀られている<ref name=suzuki692/>。
397 ⟶ 399行目:
* {{Cite book|和書|author=[[伊東多三郎]]|chapter=平田篤胤|editor=日本歴史大辞典編集委員会|year=1979|month=11|title=日本歴史大辞典第8巻 は-ま|publisher=[[河出書房新社]]|ref=伊東}}
* {{Cite book|和書|author=[[井上隆明]]監修|editor=塩谷順耳・田口勝一郎・千葉三郎ら編集|year=2000|month=7|chapter=|title=秋田人名大事典 第2版|publisher=[[秋田魁新報社]]|series=|isbn=4-87020-206-9|ref=人名}}
* {{Cite book|和書|author=[[今村義孝]]|year=1969|month=11|chapter=雷風義塾|title=秋田県の歴史|publisher=[[山川出版社]]|series=県史シリーズ5|isbn=4-634-23050-X|ref=今村}}
* {{Cite book|和書|author=[[賀川隆行]]|chapter=|editor=|year=1992|month=7|title=集英社版日本の歴史14 崩れゆく鎖国|publisher=[[集英社]]|isbn=4-08-195014-8|ref=賀川}}
* {{Cite book|和書|author=[[桂島宣弘]]|editor=野上毅編|year=1989|month=4|chapter=平田国学と豪農層|title=朝日百科日本の歴史9 近世から近代へI|publisher=[[朝日新聞社]]|isbn=4-02-380007-4|ref=桂島}}