「遣唐使」の版間の差分

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|align="center"|1||舒明2年<br />([[630年]])||舒明4年<br />([[632年]])||[[犬上御田鍬]](大使)・[[薬師恵日]]|| || ||唐使[[高表仁]]来日、僧[[旻]]帰国。
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|align="center"|2||白雉4年<br />([[653年]])||白雉5年<br />([[654年]])||第1船・[[吉士長丹]](大使)・[[吉士駒]](副使)/第2船・[[高田根麻呂]](大使)・掃守小麻呂(副使)||[[道昭]]・[[定恵]]・[[粟田真人|道観(のちの粟田真人)]]||align="center"|2||第1船は121人、第2船は120人。出航より一月半後の7月、第2船が往途の薩摩沖で遭難。よって往は南島コースであったと考えられる。生き残った5人は破材に捕まり島に漂着。島で竹を伐採して筏を作り帰還。第1船は654年7月に新羅・百済の送使と共に帰還したため、朝鮮半島経由コースだったと考えられる。このときは「西海使」(にしのみちのつかい)と『[[日本書紀]]』巻第二十五には記されている<ref>『日本書紀』孝徳天皇 白雉5年7月24日条</ref>。
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|align="center"|3||白雉5年<br />([[654年]])||斉明元年<br />([[655年]])||[[高向玄理]]([[押使]])・[[河辺麻呂]](大使)・薬師恵日(副使)|| ||align="center"|2||高向玄理は帰国せず唐で没