「三遊亭圓楽 (5代目)」の版間の差分

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1965年(昭和40年)『[[笑点]]』の前身となる『[[金曜夜席]]』の放送が開始され、圓楽は[[桂歌丸]]や[[林家こん平]]とともに出演。当初は大喜利コーナーの司会を担当したが、後の『笑点』での司会ぶりとは違い、かなりぎこちない司会ぶりであったため、早々と演芸・対談コーナーの司会で企画立案者でもある[[立川談志]]に譲って辞任し、第4回から回答者となった。
 
1966年(昭和41年)に放送が始まった『笑点』では初回から大喜利回答者として出演した。1968年(昭和43年)に立川談志と当時のメンバーの対立により降板したが、1970年(昭和45年)に復帰。以降は紫色の紋付を着用したため、挨拶では「ラベンダーマン」と名乗ることが定例となった。しかし、圓生から「おまえはこんな安っぽい芸人で終わるのか」とたしなめられたことから、落語に専念するため1977年(昭和52年)[[3月27日]]をもって番組を再び降板した<ref name="ennraku1" />。降板後、司会として復帰するまでの間にも、1978年(昭和53年)正月の鶴亀大喜利に師匠圓生と共に出演したり、弟子であり後継メンバーとなった[[三遊亭圓楽 (6代目)|三遊亭楽太郎(現:6代目三遊亭円楽)]]の師匠として師弟大喜利などでゲスト出演したりする事があり、番組との関わりは続いていた。後に弟子となる[[三遊亭好楽|林家九蔵(現:三遊亭好楽)]]を笑点メンバーに誘ったのも圓楽だった。
 
1978年の[[落語協会分裂騒動]]では「師匠をおいて残れない」と圓生一門とともに{{Efn|弟弟子の[[川柳川柳|三遊亭さん生]]・[[春風亭一柳|三遊亭好生]]は協会に残留。}}落語協会を脱退。当時、圓生は圓楽に「あたしが引退した後、お前が[[三遊派]]の総領として弟子を守っていくんでげすよ」と念を押されていた。圓生が引退している身であれば脱会はしなかったが(もともと、圓楽は騒動の原因となった真打昇進に関しては圓生と正反対の考え方を持っていた)、当時、圓生は78歳と高齢ながら現役を退いておらず、師匠に逆らい自分が弟弟子と行動を共にすることなぞできないと悟り、師匠と共に「落語三遊協会」を立ち上げた。
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1979年(昭和54年)に圓生が亡くなると、[[三遊亭圓窓#6代目|6代目三遊亭圓窓]]・[[三遊亭圓彌]]・[[三遊亭圓丈]]ら圓楽以外の圓生の直弟子たちは落語協会に復帰。圓楽は新たに「大日本落語すみれ会」を設立。すみれ会はその後、「落語円楽党」「落語ベアーズ」と改称し現在の「[[圓楽一門会]]」となる。
 
1985年(昭和60年)3月、「噺家の純粋培養」を企て寄席に出られない圓楽一門の新たな活動の場として東京都[[江東区]]東陽町に自費で寄席「[[若竹]]」を設置<ref name="mainichi">野島康祐、「三遊亭円楽さん:落語家:肺がんのため10月29日死去・76歳」『毎日新聞』、2009年12月16日、13版、27面</ref>。しかしオフィス街かつターミナル駅から離れた立地条件の悪さに加え、弟子たちが圓楽の意に反して余興(上方でいう「営業」)等に精を出して「若竹」の出番を休んでいたりしたため、これに憤った圓楽は「若竹」の閉鎖を決意し、1989年([[平成]]元年)11月25日に閉鎖した{{Efn|なお、圓楽一門会が出演する寄席は「若竹」閉鎖翌年の1990年(平成2年)、両国に「お江戸両国亭」が開業しており(運営は[[永谷商事]])、現在も営業を続けている。}}。以降、圓楽一門は圓楽傘下の芸能社である星企画の取ってくる余興等にのみ活動の場を求めなければならなくなった。<!-- 東京新聞記事から -->「若竹」閉鎖後は借金返済のために日本中で講演したため、高座から離れる機会が多くなり、圓楽はその時期のことについて「借金返済のため、噺家として大事な50代に全国を講演で回った。悔やんでも悔やみきれない」と語っている<ref>{{Cite journal | 和書 | author = 井上幸一 | title = 笑点司会「ガハハ」23年&nbsp;&nbsp;美学と厳しさ貫く&nbsp;&nbsp;円楽さん死去 | journal = [[東京新聞]] | issue = 2009年10月31日 | pages = 社会 12版 27面}}</ref>。
 
=== 『笑点』4代目司会者として ===
[[1982年]](昭和57年)[[12月8日]]に当時の司会であった[[三波伸介 (初代)|三波伸介]]の急死に伴い、[[1983年]](昭和58年)[[1月9日]]から司会者として『笑点』に復帰した。しかし当人は、2回限りの臨時司会のつもりで引き受けたと語っていた。司会就任後、しばらくは様々な色の[[紋付]]を着ており、同年[[9月4日]]放送分より、紺の色紋付に定着した。
 
就任してからしばらくは、答えの合間にその博識を生かした[[都々逸]]をしばしば披露したり、40分時代の初期には落語に専念していた時代に学んだ知識を生かして「'''よろずガイダンス'''」というコーナーで落語にまつわる話を披露するなどしていた。しばしば台本は無視、林家こん平の回答に対して着物を脱がせたこともあり、「司会者が笑い過ぎ」といった理由で、当初は批判も少なくなかった<ref name="ennraku1" />。だがそれは従来と雰囲気を変えるために意図的に行ったことであり<ref name="ennraku1" />、徐々に出題、指名、座布団の差配など最小限の仕事に絞られていく。これは放送時間の短縮に加え、三波が司会をしていたころの司会者の強烈なキャラクターを柱とした番組から{{Efn|桂歌丸は「圓楽さんは同じ噺家の『間』を持っていたため、歴代司会者で一番やりやすかったですね。三波さんもやりやすかったですが、どうしてもトリオの『間』になってしまうところがありました」と述べており<ref>ぴあMOOK『笑点五〇年史 1966-2016』P.18-21</ref>、林家木久扇は「三波さんは自分がウケようとしましたね。こちらが面白い答えをいうと『何〜!』って場面を取っちゃうのが上手かったんですね」と回想している<ref>山田隆夫『山田クンとざぶとん』 [[双葉社]] ISBN 9784575304701 191ページ</ref>。}}、スピーディーにやり取りする中でメンバーのキャラクターにクローズアップし、司会者だけでなくメンバー全員を主役とするという新しいスタイルに移行した結果である。司会就任後しばらくは視聴率面で苦戦を続けたものの、こうした番組作りの変化が功を奏し、次第にかつてのような人気番組の地位を取り戻していった。
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圓楽の司会就任から1年後、それまでの[[松崎真]]に代わる新しい座布団運びとして[[山田隆夫]]が就任。これ以降、回答者だけでなく座布団運びも番組の流れに積極的に絡むようになった。山田はやり過ぎたり、自らを罵倒する回答をしたメンバー(主にこん平及び弟子のたい平)を座布団から突き飛ばしたり(時に蹴り飛ばしたり)することがあるが、これも圓楽の助言がきっかけで始められた<ref name="rikunabi">{{Cite web|url=http://next.rikunabi.com/journal/entry/20151120_1 |title=幸せと座布団を運び続けて31年!笑点・山田クンが語る「継続する先に見えるもの」 |publisher=リクナビNEXT |date=2015-11-20 |accessdate=2015-12-11 }}</ref>。山田罵倒ネタの際には、山田の判断に一任したり、彼を擁護する発言をすることも多かった。
 
圓楽は大喜利メンバー全員で一つのファミリーを形成しているとの考えを持ち、番組の空気やリズムになじむのに時間がかかるということでメンバーの入れ替えはほとんど行わなかった{{Efn|それまで頻繁に行われていた大喜利の席替えも1992年の好楽・小遊三の入れ替えを最後に行われておらず、以降の新メンバーは前のメンバーが座っていた場所にそのまま入るケースが続いている。}}。また、メンバー全員が出演するロケ企画(ボウリング大会・山田隆夫の新居訪問・後述する自身の墓参り[[木久蔵ラーメン]]店訪問バスツアー等)が頻繁に行われたのもこの時期である。23年間司会を務めながら、その間に新加入した大喜利メンバーは[[三遊亭小遊三]]と[[林家たい平]]{{Efn|ただし、あくまで圓楽司会当時は休演した師匠・林家こん平の代演扱いだった。たい平がレギュラーメンバーに昇格したのは圓楽の勇退に伴い司会が歌丸に交代してからである。}}の2人だけ。[[1988年]](昭和63年)に弟子の[[三遊亭好楽]]が復帰してからは、たい平が加入するまでの16年間を同じメンバーで通した。こん平が長期の休演を余儀なくされた際も、圓楽は「代わりに変な芸人は入れるな。入れるなら、山田くんを大喜利に入れればいい」と語ったという<ref name="rikunabi" />。
 
歴代司会者としては最も長く務めていたが、[[2001年]](平成13年)[[2月11日]]の放送では、本来3問行われる大喜利を2問で終わらせようとしてしまった{{Efn|ちなみにこの7年後に後任司会者の歌丸も同様の失敗をやってしまい、2008年(平成20年)[[2月10日]]放送の時は三遊亭楽太郎(現:[[三遊亭圓楽 (6代目)|6代目三遊亭圓楽]])に「あれをね、うちの師匠がやった後、[[脳梗塞|ああなった]]んですよ」とネタにされた。また、現司会者の[[春風亭昇太]]も[[2017年]][[6月25日]]放送分で同様のミスを犯している。}}。