「河上肇」の版間の差分

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== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[山口県]][[玖珂郡]][[岩国町]](現在の[[岩国市]])に旧[[岩国藩]][[武士|士]]の家に生まれる。祖母に溺愛され、わがままに育ったという<ref>『マルクス主義の偉大な先達 河上肇生誕百年記念誌』 河上肇生誕百年祭実行委員会、1979年、36頁。</ref>。[[山口県立山口高等学校|山口尋常中学校]]卒業ののち、[[1898年]]に[[山口高等学校 (旧制)|山口高等学校]]法科を卒業し<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2947799/2 『官報』第4510号、明治31年7月13日、p.167]</ref>、[[東京大学|東京帝国大学]]法科大学政治科に入学。その時、故郷では見ることの出来なかった[[東京]]の貧富の差に大変なショックを受ける。その後、[[キリスト教]]者[[内村鑑三]]に大きな影響を受け、また[[足尾銅山鉱毒事件]]の演説会で感激し、その場で外套、羽織、襟巻きを寄付して、『[[東京毎日新聞]]』に「特志な大学生」であると報ぜられた。[[1902年]](明治35年)大学を卒業<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2949010/4 『官報』第5707号、明治35年7月14日、p.270]</ref>。その後[[国家学会]]雑誌に投稿するようになり、人々の幸福に[[経済学]]をもって貢献しよう、と考えるようになる。[[1903年]](明治36年)[[東京帝国大学農科大学実科]]講師に就任。その後[[専修学校 (旧制)|専修学校]]、[[台湾協会専門学校]]、[[学習院]]などの講師を兼任し、[[読売新聞]]に経済記事を執筆。[[1905年]](明治38年)、教職を辞し、無我愛を主張する[[伊藤証信]]の「無我苑」の生活に入るが、間もなく脱退し、[[読売新聞社]]に入る。
 
=== マルクス主義者として ===
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[[1908年]](明治41年)、[[田島錦治]]に請われ、京都帝大の講師となって以後は研究生活を送る。[[1912年]]には、これまでの自己の研究を総括した論文集『経済学研究』を執筆する。[[1913年]]([[大正]]2年)から[[1915年]](大正4年)にかけて2年間の[[ヨーロッパ]]留学に赴く。[[1914年]]には法学博士の学位を授与される<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2952800/7 『官報』第693号、大正3年11月21日、p.491]</ref>。帰国後、教授。[[1916年]](大正5年)から新聞に『貧乏物語』を連載し、翌年出版。[[大正デモクラシー]]の風潮の中、貧困というテーマに経済学的に取り組んだ書はベストセラーになった。中にはマルクス経済学の紹介もあるが、結論は、貧乏をなくすには金持ちが奢侈をやめることだというものだった。河上は『貧乏物語』の中で「[[ワーキングプア]]が生まれるのは、[[富裕層]]が贅沢をして、社会が貧者の生活必需品を作らないからである」という批判を行い、社会全体が贅沢を止め、質素倹約をすれば[[貧困]]の問題は解消されると論じた<ref>[[田中秀臣]] 『不謹慎な経済学』 講談社〈講談社biz〉、2008年、60頁。</ref>。しかし、その結論に対し、[[福田徳三]]や[[社会主義|社会主義者]]の[[堺利彦]]は「現実的ではない」と痛烈に批判している。
 
[[1920年]](大正9年)9月に京大で経済学部長になる。その後、マルクス経済学に傾倒し、研究を進める。[[1921年]](大正10年)河上が執筆した論文「断片」のため、雑誌『[[改造 (雑誌)|改造]]』は発売禁止となるが、この論文はのちに[[虎の門事件]]を起こす[[難波大助]]に影響を与えたという。[[1924年]]、[[労農派]]の[[櫛田民蔵]]が河上のマルクス主義解釈は間違っていると痛烈に批判した<ref>田中秀臣 『沈黙と抵抗-ある知識人の生涯、評伝・住谷悦治』 藤原書店、2001年、228頁。</ref>。河上は批判が的を射ていることを認め<ref>田中秀臣 『沈黙と抵抗-ある知識人の生涯、評伝・住谷悦治』 藤原書店、2001年、228-229頁。</ref>、マルクス主義の真髄を極めようと発奮する。『[[資本論]]』などマルクス主義文献の翻訳を進め、河上の講義は学生にも大きな影響を与えた。[[1928年]](昭和3年)、京都帝大を辞職<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1447046/176 『京都帝国大学一覧 昭和4年』京都帝国大学、1929年8月、pp.333-334]</ref>し、[[大山郁夫]]のもと[[労働農民党]]の結成に参加。[[1930年]](昭和5年)、京都から東京に移るが、やがて労働農民党は誤っていると批判し、大山と決別。雑誌『改造』に『第二貧乏物語』を連載し、マルクス主義の入門書として広く読まれた。
 
[[昭和恐慌]]のときには、河上は[[デフレーション|デフレ]]を放置しても問題ではなく、デフレを脱却しても[[資本主義]]経済の限界は解消されないと主張した<ref>田中秀臣編著 『日本経済は復活するか』 藤原書店、2013年、288頁。</ref>。
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京都大学を退官して、『資本論』の翻訳に没頭していた河上肇は、昭和初期から地下の共産党へのカンパを開始した。はじめは組織の末端にいた活動家に対する寄付だけだったが、1931年(昭和6年)夏の頃、[[日本大学|日大]]の民法学者杉ノ原舜一を介して、党中央と連絡が付き、資金を[[日本共産党中央委員会|党中央]]に直接入れるようになった。当初は、月々百円単位(2千倍で換算して、百円は現在の20万円くらいと思ってよい)だったが、やがて、千円単位の臨時の寄付を度々頼まれるようになった。
 
そして[[1932年]]、河上自身が日本共産党に入党して、その地下運動に参加する。入党後の仕事は、機関紙「[[しんぶん赤旗|赤旗]]」の編集を助け、政治パンフレット作りに参加し、その執筆にあたることだった。この間にした仕事で最も知られているのは、[[コミンテルン]]が発表した[[32年テーゼ]](日本共産党の基本的活動方針)をいちはやく入手して翻訳し、それを党名の本田弘藤名義で「赤旗」特別号に発表したことである。
 
[[1933年]]8月1日、新生共産党事件といわれる[[日本国政府|政府]]による第4次検挙により、[[大塚金之助]][[東京商科大学]]教授、[[風早八十二]]元[[九州大学|九州帝国大学]]教授らとともに検挙され<ref>[[小島直記]]『気概の人石橋湛山』</ref>、[[治安維持法]]違反で[[豊多摩刑務所]]に[[収監]]される(のち[[市ヶ谷刑務所]])。収監中に自らの共産党活動に対する敗北声明と[[転向]]を発し、大きな衝撃を与えた。また獄中で漢詩に親しみ、自ら漢詩を作るとともに、[[曹操]]や[[陸游]]の詩に親しんだ。この成果は出獄後にさらにまとめた『陸放翁鑑賞』(放翁は陸游の号)などで見ることができる。[[1937年]](昭和12年)出獄後は、自叙伝などの執筆をする。[[1941年]]京都に転居。[[日本の降伏|終戦]]後、活動への復帰を予定したが、[[1946年]]に老衰と栄養失調に肺炎を併発し、[[京都市]][[左京区]]の自宅で逝去。戒名は天心院精進日肇居士<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)103頁</ref>。[[1947年]]、『自叙伝』が刊行される。
 
== 著作 ==