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== 生涯 ==
=== 幼少期即位 ===
[[file:Couronnement de Charles VI le Bien-Aimé.jpg|200px|thumb|シャルル6世の戴冠式]]
 
[[1368年]]12月3日、パリの王宮にある{{ill2|サン・ポール館|en|Hôtel Saint-Pol}}でシャルル6世は生まれた。 父は[[ヴァロワ家]]の[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]]、母は[[ジャンヌ・ド・ブルボン]]だった。シャルル6世が生まれた時点で彼の兄は皆死亡していたため、シャルルは[[ドーファン]]としてフランス王位を継承する権利を持った。父シャルル5世が[[1380年]]9月16日に死亡すると、シャルルは王位を継承し、11月4日に[[ノートルダム大聖堂 (ランス)|ランス・ノートルダム大聖堂]]で戴冠式が行われた<ref>Jonathan Sumption, ''The Hundred Years War: Divided Houses'', Vol. III, (University of Pennsylvania Press, 2009), 397.</ref>。当時、王族は14歳で成人するとされていたが、シャルル6世がその年齢を迎えた後も[[摂政]]による統治が行われ、[[1388年]]になるまで王による[[親政]]が開始されることはなかった<ref>Jonathan Sumption, ''The Hundred Years War: Divided Houses'', Vol. III, 665-666.</ref>。
 
==== 摂政による後見 ====
シャルル6世は若干11歳でフランス王位を継承し、21歳の時に摂政による後見を終わらせて親政を開始したが、それまでの間はシャルルの[[おじ]]たちが王の摂政として実権を握り続けた。シャルルの未成年期に王の摂政としてフランスを支配したのは、父シャルル5世の弟である[[フィリップ2世 (ブルゴーニュ公)|ブルゴーニュ公フィリップ]]、[[ルイ1世・ダンジュー|アンジュー公ルイ]]、[[ジャン1世 (ベリー公)|ベリー公ジャン]]の3人と、母[[ジャンヌ・ド・ブルボン]]の兄である[[ルイ2世 (ブルボン公)|ブルボン公ルイ]]だった。アンジュー公ルイは1382年より[[ナポリ王国]]王位をめぐる戦いに参加し、1384年に死没した。ベリー公ジャンは[[ラングドック]]の支配に注力しており<ref>Vaughan, 40-41</ref>、政治には大きな関心を示さなかった。ブルボン公ルイは精神的に不安定であり、またフランス国王の子でもないため重要視されなかった。結果として、ブルゴーニュ公フィリップが摂政の中でも圧倒的な力を持つこととなった。
 
シャルル6世は1388年に摂政を解任して親政を開始すると摂政による支配を終わらせた。シャルルは統治を行うにあたってシャルル5世の有能な顧問団であった{{ill2|マルムゼ|en|Marmousets}}を復権させた<ref>Vaughn, 42.</ref>。マルムゼによる補佐の下、シャルル6世の統治は国民からの尊敬を集め、シャルルは広く「親愛王」の名で呼ばれるようになった。
 
=== 発狂 ===
マルムゼの助けを得たシャルル6世の初期の名声は、王が20代半ばに[[精神病]]を発症したことですぐに失われた。シャルルの精神病は母[[ジャンヌ・ド・ブルボン]]の血筋を通じて遺伝した可能性がある<ref>{{Cite book|url=http://eprints.utas.edu.au/11741/2/alger_whole_thesis.pdf|title=The Politics of Madness: Government in the Reigns of Charles VI and Henry V|last=Alger|first=Sarah|publisher=|year=2001|isbn=|location=|pages=24}}</ref>。精神に異常をきたして以降のシャルルは、「親愛王」に加えて「狂気王」の名でも呼ばれるようになった。
[[1392年]]に寵臣であったフランス王軍[[コネターブル|司令官]][[オリヴィエ・ド・クリッソン]]の[[暗殺]]未遂事件が起こると、シャルル6世は興奮して首謀者と見られた[[ブルターニュ公国|ブルターニュ]][[ブルターニュ君主一覧|公]][[ジャン4世 (ブルターニュ公)|ジャン4世]]の討伐軍を自ら率いた。しかし、ブルターニュ遠征の途中で出会った狂人に「裏切り者がいる」との暗示を受け、ある兵士が槍を取り落とした音に驚いて発狂し、周りの者に斬りかかった。この時、同行していた叔父のフィリップ豪胆公は、後に対立することになる王弟[[オルレアン公]][[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|ルイ・ド・ヴァロワ]]に「逃げろ、甥よ」と声をかけたといわれる。その後一旦回復したが、不安定な精神状態が続いた。
 
初めてシャルル6世に狂気の兆候が現れたのは1392年だった。この年、友人であり助言者でもあった[[オリヴィエ・ド・クリッソン]]が暗殺されかけたのを知ったシャルルは、実行犯のピエール・ド・クランを罰することに執念を燃やした。ド・クランが[[ブルターニュ公国]]に逃げ込み、ブルターニュ公[[ジャン4世 (ブルターニュ公)|ジャン4世]]が身柄引き渡しの要求を拒否すると、シャルルはブルターニュとの戦争の準備に取り掛かった。
翌[[1393年]]1月28日には「[[燃える人の舞踏会]]」(Le Bal des ardents)という事件が起こっている。王妃イザボー・ド・バヴィエールは侍女の一人の婚礼を祝して、大規模な仮装舞踏会(モレスコ、morisco)を開催した。シャルル6世と5人の貴族は[[亜麻]]と[[松脂]]で体を覆い、毛むくじゃらの森の野蛮人(ウッドウォード)に扮して互いを鎖で繋いで踊る「野蛮人の踊り」(Bal des sauvages)をしようとしたが、[[たいまつ]]に近づきすぎて衣裳が燃え上がり、シャルル6世はベリー公夫人[[ジャンヌ2世 (オーヴェルニュ女伯)|ジャンヌ・ド・ブローニュ]]のとっさの機転で助かったものの、4人が焼死するという事件になった<ref>弟のルイが原因を作ったとの伝承あり。 [[:fr:Bal des ardents#Bal]]/[[:en:Bal des Ardents#Bal des Ardents and aftermath]] アメリカの作家[[エドガー・アラン・ポー]]は、この事件を基にして小説「[[跳び蛙]]」(1849 [[:en:Hop-Frog]])を書いたという。</ref>。シャルル6世はその後、急速に精神を病むようになった。
 
当時の記録によれば、シャルル6世はブルターニュとの戦争を計画するにあたって「病的な興奮」を示しており、また支離滅裂な言葉を発していた。1392年7月1日、シャルルは軍勢を引き連れてブルターニュへと出発した。行軍の速度は遅く、シャルルを苛立たせた。
 
8月のある暑い日の朝、行軍中のシャルル6世と護衛の騎士たちは[[ル・マン]]近郊の森を通りかかった。その時、ぼろを纏った1人の狂人が現れ、裸足で王の馬に駆け寄って手綱を掴むと、「高貴なる王よ、これ以上進んではならない……戻りなさい、あなたは裏切りにあっている」などとわめいた。護衛たちはこの男を追い払ったが、逮捕することはなかった。男はその後30分にわたって一行に付きまとい、繰り返しわめき続けた<ref>W.H. Jervis, ''A History of France: from the Earliest Times to the Fall of the Second Empire in 1870'', (London: John Murray, 1884), 228, §5; Jean Juvenal des Ursins, ''Histoire de Charles VI, Roy de France'', (Paris: A. Desrez, 1841), 377; Michaud, J.F and L.G., ''Biographie universelle, ancienne et moderne'', 85 vols., (Paris: L.G. Michaud, 1813), 8:114 sub Charles VI.</ref>。
 
正午に一行が森を抜けた後、[[ペイジ|小姓]]の1人が誤って手に持っていた王の槍を落とし、それが別の小姓が運んでいた鋼のヘルメットに当たって大きな音をたてた。その音を聞いたシャルルは身震いすると剣を抜き、「裏切り者に突撃せよ、奴らは私を敵に引き渡すつもりだ」などと叫ぶと、馬に拍車をかけて自軍の騎士に襲いかかった。襲撃は、侍従の1人と兵士数人がシャルルを馬から引きずり下ろし、地面に取り押さえるまでの間続いた。屈服させられたシャルルは微動だにせず、何の反応も見せないまま昏睡状態に陥った。王による襲撃の結果、「バスタール・ド・ポリニャック」として知られる騎士を含む数名が殺害された<ref>M. Guizot, ''The History of France from the Earliest Times to the Year 1789'', Vol. 2, transl. Robert Black, (P.F. Collier & son, 1902), 189.</ref>。
 
この事件の後、シャルル6世はその生涯にわたって精神異常の発作を繰り返すこととなった。1393年に起きた発作では、シャルルは自分の名前を思い出せなくなり、自分が国王であることも認識できなくなった。妻の[[イザボー・ド・バヴィエール]]が自分の部屋に訪れた際には、彼女が何者であるかを召使いに尋ねた上、「この者」を早く出て行かせるために必要な対処をするよう命じた<ref>R.C. Famiglietti, ''Royal Intrigue: Crisis at the Court of Charles VI, 1392–1420'', New York, 1986, p. 4, citing the chronicle of the Religieux de Saint-Denis, ed. Bellaguet, II, pp. 86–88.</ref>。1395年–1396年頃の発作では、自らが[[聖ゲオルギオス]]であると主張したほか、自分の家の[[紋章]]は剣に体を貫かれたライオンであるなどと述べた<ref>R.C. Famiglietti, ''Royal Intrigue: Crisis at the Court of Charles VI, 1392–1420'', New York, 1986, p. 5, citing the chronicle of the Religieux de Saint-Denis, ed. Bellaguet, II, pp. 404–05.</ref>。この時、シャルルは宮廷の官吏全員を認識することができた一方で、自分の妻と子供のことは憶えていなかった。またある時は、パリの王宮(サン・ポール館)の廊下を狂乱状態で走り回ったため、王が逃げ出さないよう館の出入り口が壁で塞がれた。1405年には、入浴と着替えを5ヶ月にわたって拒否し続けた<ref>R.C. Famiglietti, ''Royal Intrigue: Crisis at the Court of Charles VI, 1392–1420'', New York, 1986, p. 6, citing the chronicle of the Religieux de Saint-Denis, ed. Bellaguet, III, p. 348</ref>。シャルル6世の治世に生まれた[[ピウス2世]]が残した記述によれば、シャルルは時に自分の体がガラスでできていると思い込むことがあり、壊れやすい体を保護するため様々な方法を試していた。例として、他の人とぶつかった際に体が粉々にならないよう鉄の棒を服に縫い付けていたという<ref>Enea Silvio Piccolomini (Papa Pio II), ''I Commentarii'', ed. L. Totaro, Milano, 1984, I, p. 1056.</ref>。この症状はのちに{{ill2|ガラス妄想|en|glass delusion}}として知られるようになった。
 
==== 燃える人の舞踏会 ====
{{main|燃える人の舞踏会}}
[[File:Le Bal des Ardents.jpg|thumb|[[燃える人の舞踏会]]の[[ミニアチュール]]]]
 
1393年1月29日、ある女官の結婚を祝うため、王妃イザボーはサン・ポール館で仮装舞踏会を開催した。ユゲ・ド・ギゼという貴族の提案により、この舞踏会でシャルル6世は他の4人の貴族たち<ref name="Froissart Chronicles .p.550">[[Froissart's Chronicles]], ed. T. Johnes, II (1855), p.550</ref>と共に「森の野蛮人」に仮装してダンスを披露することとなった。野蛮人のコスチュームは松脂を染み込ませたリネンに麻を張り付けたもので、シャルルたち踊り手の全身がけむくじゃらに見えるようにしたものだった<ref>Barbara Tuchman, A Distant Mirror, 1978, Alfred A Knopf Ltd. See the chronicle of the Religieux de Saint-Denis, ed. Bellaguet, II, pp. 64–71, where the squire's name is given correctly as de Guisay.</ref>。踊り手の1人であるイヴァン・ド・フォワの勧めにより、王は[[松明]]を持った者に対して「野蛮人のダンス」には近寄らず部屋の端に立つことを事前に命じていたが、会場に遅れて来た王弟[[ルイ・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|オルレアン公ルイ]]がそれに反して松明を踊り手の1人に近づけたため、誤ってそのコスチュームに火をつけてしまった。火は瞬く間に燃え広がり、会場はパニックに陥ったが、[[ジャンヌ2世 (オーヴェルニュ女伯)|ベリー公妃ジャンヌ2世]]はとっさに自らのガウンのトレーンをシャルルにかぶせ、火の粉から王を守った<ref>[[Froissart's Chronicles]], ed. T. Johnes, II (1855), pp.550-2</ref>。数人の騎士は炎を消そうとして重い火傷を負った。野蛮人に仮装した者のうち、ヴァレンティノワ伯の息子エメリー・ド・ポワティエ、ユゲ・ド・ギゼ、イヴァン・ド・フォワ、[[ジョワニー]]伯の4人が火傷によって死亡した。ナンテュイエ伯の息子ジャンは洗い水の入った桶に飛び込むことで一命をとりとめた<ref>[[Froissart's Chronicles]], ed. T. Johnes, II (1855), p.550. Note that Froissart and the Religieux de Saint-Denis differ as to when the four men died. Huguet de Guisay had held the office of cupbearer of the king.</ref>。
 
=== ブルゴーニュ派とアルマニャック派の対立 ===