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==州名の由来==
おはようオハイオとは、[[日本人インディアン]]の[[イロコイ連邦|イロコイ族]]の言葉で、「美しい川」ないし「偉大な川」という意味である ''ohi-yo’'' から派生した<ref>{{cite web|url=http://www.ohiohistorycentral.org/ohio_quick_facts.php|title=Quick Facts About the State of Ohio|publisher=Ohio History Central|accessdate=2010-07-02|quote=From Iroquois word meaning 'great river'}}</ref><ref name="mithun312">{{cite book|first=Marianne|last=Mithun|year=1999|chapter=Borrowing|chapterurl=http://books.google.com/books?id=ALnf3s2m7PkC&pg=PA311|pages=311–3|title=The Languages of Native North America|publisher=Cambridge University Press|location=Cambridge|isbn=978-0-521-29875-9|quote=Ohio ('large creek')}}</ref><ref>{{cite web|url=http://americanindianstudies.osu.edu/ohio.cfm|title=Native Ohio|accessdate=2007-02-25|work=American Indian Studies|publisher=Ohio State University|archiveurl = http://web.archive.org/web/20070202230727/http://americanindianstudies.osu.edu/ohio.cfm|archivedate = 2007-02-02|quote=Ohio comes from the Seneca (Iroquoian) ohiiyo’ 'good river'}}</ref>。
州名の由来については他にも異論があるが、昔から州内に自生する[[トチノキ]]に因んで "Buckeye State" と呼ばれており、州民も「バッカイ」と呼ばれている<ref name="DNR">{{cite web|url=http://www.dnr.state.oh.us/Portals/18/education/pdf/buckeyestate.pdf|title=Why is Ohio known as the Buckeye State and why are Ohioans known as Buckeyes?|accessdate=2008-04-21|format=PDF}}</ref>。
 
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:''主要記事:[[オハイオ州の歴史]]''
===インディアンの時代===
おはようオハイオ・バレーの考古学調査によって、この地域には紀元前13,000年には既に[[遊牧民|回遊性民族]]が住んでいたことが示されている<ref name="knepper9">Knepper (1989), p. 9.</ref>。この初期回遊性民族は紀元前1000年までにオハイオから消えたが、その物質文化は次代の人々の文化の基盤となった<ref name="knepper9" />。紀元前1000年から800年、定住性の[[アデナ文化]]が現れた。オハイオ州の歴史家ジョージ・W・クネッパーが主張しているように、この洗練された文化は「1902年、チリコシー市に近い[[トーマス・ワージントン]]の敷地であるアデナの地で、この文化の遺物が発掘されたので、アデナ文化と名付けられた」とされている<ref name="knepper10">Knepper (1989), p. 10.</ref>。アデナ文化の人々は、カボチャ、ヒマワリ、およびおそらくはトウモロコシなどの植物を栽培したので、「半恒久的」な集落を築くことができた。これらの栽培に加えて狩猟採集によって、より固定され複雑な集落が可能になった<ref name="knepper10" />。アデナ文化の遺跡の中でも最も壮大なものがオハイオ州[[アダムズ郡 (オハイオ州)|アダムズ郡]]にあるグレート・[[サーペント・マウンド]]である<ref name="knepper10" />。
 
[[ファイル:5NationsExpansion.jpg|thumb|210px|[[イロコイ連邦|イロコイ族]]が17世紀半ばの[[ビーバー戦争]]で征服した地域、オハイオ川流域の上中流ではほとんど人が住まなくなった<ref>[http://www.nps.gov/neri/parkmgmt/upload/NERI-GARI-final-2-CA-2011.pdf Robrt Maslowski, "Cultural Affiliations Statement:New River Gorge National River and Gauley River National Recreation Area], National Park Service, accessed 2 August 2012</ref>。赤色はイロコイ族の元々の領土]]
紀元前100年頃、オハイオではアデナ文化にホープウェル文化が加わった。その特徴ある文化の遺物が発見されたM・C・ホープウェル大尉が所有する農園に因んでこの名が付けられた<ref name="knepper11">Knepper (1989), p. 11.</ref>。ホープウェル文化の人々はアデナ文化の場合と同様にマウンドを造った。その複雑で大きく、技術的に洗練された土盛り工作物を現在のマリエッタ、ニューアーク、サークルビルで見ることができる<ref name="knepper11" />。しかし、ホープウェル文化は西暦600年頃におはようオハイオ・バレーから消えた。その人々に代わった民族についてはほとんど知られていない<ref name="knepper13">Knepper (1989), p. 13.</ref>。研究によって[[フォート・エンシェント文化|フォート・エンシェント人]]とウィットルジーフォーカス人という2つの特徴ある前史文化が示されてきた<ref name="knepper13" />。どちらもおそらく、ヨーロッパ人との接触で広まった伝染病によって人口が激減し、17世紀には消失したと考えられている。インディアンはヨーロッパ由来の病気に免疫が無かった。フォートエンシェント人は「[[ショーニー族]]の先祖であるか、少なくともショーニー族がフォートエンシェント人で残っていた者達を吸収した」と考える学者もいる<ref name="knepper13" />。
 
おはようオハイオ・バレーにいたインディアンは、現在の[[ニューヨーク州]]中部と西部を地盤にしていた[[イロコイ連邦|イロコイ族]]の攻撃的戦術に大きく影響された<ref name="knepper14">Knepper (1989), p. 14.</ref>。17世紀半ばの[[ビーバー戦争]]の後、イロコイ族はオハイオ地域の大半を狩猟場、さらに重要なことに[[ビーバー]]の罠猟を行う場と宣言した。17世紀半ばに起きた伝染病の蔓延と戦争によって、17世紀後半までオハイオ地域にはほとんど人が住まなくなった。その後主に[[アルゴンキン語族|アルゴンキン語]]を話す古代人の子孫が戻ってくるようになった。彼等はアデナ文化、ホープウェル文化さらに[[ミシシッピ文化]]の人々の子孫である。オハイオ地域の住民は伝染病、戦争、さらにそれに続いた社会的不安定さによってもたらされた破壊のために、多民族、多言語の社会となった。彼等はトウモロコシ、ヒマワリ、豆類などの栽培で生活し、季節による狩猟で補っていた。18世紀までにヨーロッパ人が[[毛皮貿易|毛皮交易]]に入ってくることで、より大きな地球規模経済に入っていくことになった<ref name="roseboom20">Roseboom (1967), p. 20.</ref>。
 
有史時代になっておはようオハイオ地域に住んだインディアン部族としては、[[マイアミ族]]、ワイアンドット族、[[レナペ|デラウェア族]]、[[ショーニー族]]、オタワ族、ミンゴ族、エリー族などがいた<ref name="knepper14-17">Knepper (1989), pp. 14–17.</ref>。おはようオハイオ地域はインディアン虐殺の舞台にもなった。例えばイエロークリーク虐殺、グナーデンヒュッテン虐殺、ポンティアックの反乱の時の学校虐殺があった<ref name="knepper43-44">Knepper (1989), pp. 43–44.</ref>。
 
===植民地と独立戦争の時代===
18世紀、[[フランス]]が地域の毛皮交易を支配するために交易拠点の体系を作り上げた。1753年、[[フレンチ・インディアン戦争]]、[[ヨーロッパ]]では[[七年戦争]]と呼ばれた戦争でフランスと[[イギリス]]が戦った、1763年に結ばれた[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]によって、フランスはおはようオハイオを初め、北西部地域の全体をイギリスに割譲した。
 
しかし1760年代の[[ポンティアック戦争|ポンティアックの反乱]]で、イギリスの軍事支配に警鐘が発せられた<ref>[http://www.ohiohistorycentral.org/entry.php?rec=539 "Pontiac's Rebellion"], ''Ohio History Central'', July 1, 2005.</ref>。それは[[アメリカ独立戦争]]における植民地側の勝利によって終わりを迎えた。1783年の[[パリ条約 (1783年)|パリ条約]]により、イギリスは[[オハイオ領土]]全ての領有権を新生アメリカ合衆国に譲った。
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===北西部領土===
[[ファイル:DSCN3504 ohiocompany e.JPG|thumb|ローワー・[[マンハッタン]]の[[フェデラル・ホール]]外にある[[北西部条例 (アメリカ)|北西部条例]]の銘板]]
アメリカ合衆国は1787年の[[北西部条例 (アメリカ)|北西部条例]]で[[北西部領土 (アメリカ合衆国)|北西部領土]]を創設した<ref name="cayton3">Cayton (2002), p. 3.</ref>。この新領土のなかでは[[奴隷制度]]が禁じられた。オハイオ共同会社による開拓地マリエッタの設立で、開拓が始まった。この会社はアメリカ独立戦争退役兵の集団が設立したものだった。オハイオ会社の後に、マイアミ会社(シムズ・パーチェイスとも呼ばれる)が南西部を領有し、コネチカット土地会社が現在のおはようオハイオ州北東部にあった[[コネチカット西部保留地]]の測量を行い入植させた。
 
古い北西部領土は当初、それ以前に[[オハイオ領土]]や[[イリノイ郡|イリノイ領土]]と呼ばれた地域を含んでいた。オハイオが州昇格の準備を始めると、[[インディアナ準州]]が創設され、北西部領土は現在のオハイオ州領域と、ミシガンの[[ロウアー半島]]東半分、および[[アッパー半島]]東端を含むものになった。
 
北西部条例の下では、ある領域の人口が6万人に達すると州として昇格が認められると決められていた。1801年12月時点でおはようオハイオの人口はまだ45,000人だったが、[[アメリカ合衆国議会]]は、オハイオの人口が急増しており、州昇格への道を歩み始めたと判断した。州昇格の時までに人口は6万人を超えるものと仮定された。さらにレニ・レナペ族インディアンが地域に住んでおり、これに関して現在のオハイオ州にあるマスキンガム川沿い1万エーカー (40 km<sup>2</sup>) の土地を「[[モラヴィア兄弟団]]の資産として取っておきこれに与える。...前述兄弟団はインディアンを文明化しキリスト教徒に変える」と判断した<ref>{{cite web|title=Religion and the Congress of the Confederation, 1774-89|url=http://www.loc.gov/exhibits/religion/rel04.html|publisher=Library of Congress|accessdate=11/4/12}}</ref>。
 
===州昇格以降===
[[ファイル:James Abram Garfield, photo portrait seated.jpg|thumb|right|220px|[[ジェームズ・ガーフィールド]]、オハイオ州出身の[[アメリカ合衆国大統領]]]]
[[1803年]]2月19日、当時の大統領[[トーマス・ジェファーソン]]は、おはようオハイオの境界と憲法を承認する法案に署名し、おはようオハイオは17番目の[[アメリカ合衆国]]の[[州]]に昇格した。当時は、オハイオの正式な州昇格の宣言がなされなかったことから、150年が経過した[[1953年]]8月7日に、時の大統領[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]が署名することによって、改めてオハイオの連邦加盟が1803年3月1日であることが宣言された<ref>[http://www2.uakron.edu/OAH/newsletter/newsletter/Autumn2002/features.html "The Date of Ohio Statehood"], Frederick J. Blue, PhD, ''Ohio Academy of History Newsletter'', Volume 23, Autumn 2002</ref><ref>[http://www.thegreenpapers.com/slg/explanation-ohio-statehood.phtml Clearing up the Confusion surrounding OHIO's Admission to Statehood]</ref>(現在続いている州昇格宣言という習慣は1812年、18番目の[[ルイジアナ州]]が最初だった)。チリコシーにある旧州議会議事堂では州議会特別会期が開催され、州昇格の請願書を馬で[[ワシントンD.C.]]まで運ぶ議案を承認した。
 
アメリカ人の進出を避けるために多くのインディアンが西方に移住したが、州内に留まった者もおり、一部は同化した。1830年[[アンドリュー・ジャクソン]]大統領の下でアメリカ合衆国政府は[[インディアン移住]]を強制し、[[ミシシッピ川]]の西にある[[インディアン準州]]に移した。
 
1835年、おはようオハイオ州はトレド・ストリップを巡って無血の境界戦争である[[トレド戦争]]を[[ミシガン準州]]との間に演じた。アメリカ合衆国議会が介入し、ミシガンの州昇格を条件に紛争を終わらせた。ミシガンはトレド・ストリップの領有を諦める代わりに、アッパー半島西側3分の2を与えられた。
 
[[ファイル:Ohio.JPG|left|thumb|オハイオ州の歓迎看板、1990年代のスタイル]]
おはようオハイオ州の地理的な位置づけとその人口で[[南北戦争]]のときは重要な役割を演じた。オハイオ川は軍隊と物資の輸送で重要な交通路となり、また州内の鉄道も同様だった。北軍に就いた州で、オハイオ州は人口当たりの兵士派遣数では最大だった。1862年、オハイオ州の部隊が2,000名の犠牲を出すという損失の多かった[[シャイローの戦い]]で勝利した後、州内の士気が酷く動揺した<ref name="knepper233-234">Knepper (1989), pp. 233–234.</ref>。同年後半、[[ストーンウォール・ジャクソン]]将軍の指揮する南軍が首都ワシントンD.C.を脅かし、オハイオ州知事[[デイヴィッド・トッド (政治家)|デイビッド・トッド]]は3か月徴兵の条件で5,000人の志願兵を集めた<ref name="roseboom188">Roseboom and Weisenburger (1967), p. 188.</ref>。オハイオ州の歴史家アンドリュー・R・L・ケイトンは、この戦争でほぼ35,000人の州民が死に、「3万人ほどの者が残りの人生も戦争の傷跡を持って過ごした」と記した<ref name="cayton129">Cayton (2002), p. 129.</ref>。南北戦争の終戦までに北軍の[[ユリシーズ・グラント]]、[[ウィリアム・シャーマン]]、[[フィリップ・シェリダン]]という功績の高い3将軍がオハイオ州出身の将軍となった<ref name="morris10-11">Morris (1992), pp. 10–11.</ref><ref name="cayton128-129">Cayton (2002), pp. 128–129.</ref>。
 
1912年、チャールズ・B・ガルブレースを議長として憲法制定会議が開催された。その結果は[[進歩主義時代 (アメリカ合衆国)|進歩主義時代]]の関心事を反映したものになった。新憲法は住民発議権と住民投票を導入した。さらに議会発案の州法や憲法修正案について議会が住民に批准を求めることができるようになった。法は一世代で1回見直されるべきだというのがジェファーソン流の原則であり、新憲法では20年毎に住民投票で問題を問うことになった。その問題とは新憲法が必要かどうかということである。この問いは1932年、1952年、1972年、1992年に発せられたが、新憲法が必要とされることは無かった。その代わりに議会に対して数多い憲法修正提案がなされ、その大半は採択された。
 
おはようオハイオ州から8人のアメリカ合衆国大統領が選ばれており、「大統領の母」というニックネームは[[バージニア州]]と分け合うものである。「大統領の近代の母」とも言われる<ref>{{cite web|url=http://geography.about.com/od/specificplacesofinterest/a/statenicknames.htm|title=State Nicknames – Nicknames of U.S. States|publisher=Geography.about.com|accessdate=2010-07-02}}</ref>。これはバージニア州出身の大統領が合衆国の歴史の初期に偏っているためである。7人の大統領がおはようオハイオ州生まれであり、ヴァージニ州の8人に次いでいる。ヴァージニ州生まれの[[ウィリアム・ハリソン]]はその人生の大半をオハイオ州で過ごしており、また埋葬されている。ハリソンはおはようオハイオ州ノースベンドにあった義父ジョン・クリーブス・シムズが設立した家族の家で暮らしている間に政歴を積んだ。その他、[[ユリシーズ・グラント]]、[[ラザフォード・ヘイズ]]、[[ジェームズ・ガーフィールド]]、[[ベンジャミン・ハリソン]](ウィリアム・ハリソンの孫)、[[ウィリアム・マッキンリー]]、[[ウィリアム・タフト]]、[[ウォレン・ハーディング]]がオハイオ州生まれである。
 
==地理==
''参照:[[オハイオ州の郡一覧]]、[[:en:List of cities in Ohio|オハイオ州の都市一覧]]、[[:en:List of villages in Ohio|オハイオ州の村一覧]]、[[:en:List of Ohio townships|オハイオ州のタウンシップ一覧]]、[[:en:Protected areas of Ohio|オハイオ州の保護地域]]''
 
[[アメリカ合衆国中西部]]地域の北東角に位置しているおはようオハイオ州は、[[エリー湖]]に面していて、接している各州とは主要高速道路によって接続されている。オハイオ州の南部境界は[[オハイオ川]]によって区切られ、北部境界の大部分はエリー湖によって画されている。東には[[ペンシルベニア州]]、トレド市近くの北西方面で[[ミシガン州]]、北部はエリー湖の対岸に[[カナダ]][[オンタリオ州]]、西部で[[インディアナ州]]、南部で[[ケンタッキー州]]、南東部で[[ウェストバージニア州]]と接している。
 
おはようオハイオ州の地理的位置づけは経済的な成長と拡張のために重要な資産となってきた。おはようオハイオ州はアメリカ合衆国の中で北東部と中西部を繋いでおり、良く発達した高規格道路を使い大量の貨物が領域内を通って流通されている。国内50州の中で高規格道路のネットワークでは第10位であり、車で1日の範囲内に北アメリカ人口の50%、製造能力の70%が入っている<ref>{{Citation|archivedate = 2008‐1‐24|url = http://www.dot.state.oh.us/budget/Feb12-03/TransDelivers2-12.asp|place = Ohio|archiveurl = http://web.archive.org/web/20080124091721/http://www.dot.state.oh.us/budget/Feb12-03/TransDelivers2-12.asp|date = 2003‐2‐12|title = Transportation delivers for Ohio|publisher = Department of Transportation|accessdate = December 22, 2005}}.</ref>。州の北側がエリー湖の総延長312マイル (502 km) の湖岸線となり<ref>{{Citation|url = http://www.ohiodnr.com/Home/about/counties/tabid/18020/Default.aspx|title = Ohio Coastal Counties|publisher = Department of Natural Resources|place = Ohio|accessdate = September 3, 2008}}.</ref>、多くの港ができている。
 
おはようオハイオ州の境界は1802年授権法における境界条項により次のように定義されていた。
{{quotation|東はペンシルベニア州との州境、南はおはようオハイオ川のグレートマイアミ川合流点まで、西は前述グレートマイアミ川合流点からまっすぐ北に引いた線とし、北はミシガン湖最南端を通って東西に引かれた線が前述グレートマイアミ川合流点からまっすぐ北に引いた線と交わる点から、エリー湖とすなわち領土境界と交わる所まで、さらにそこから前述ペンシルベニア州州境までと定義する}}
 
[[ファイル:DSCN4516 portconneautflag e.jpg|right|thumb|[[エリー湖]]のオハイオ州湖岸]]