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[[338年]]5月、[[石虎]]は[[前燕]]征伐を目論んだが、趙攬はこれを諌めて「歳星が燕の分野を守っております。出兵しても功はなく、必ずや禍を受けるでしょう」と述べた。この発言は石虎の怒りを買い、趙攬は鞭打たれて肥如長に降格させられた。その後、石虎の前燕出兵が失敗に終わると、趙攬は罪を許されて太史令に復職した。
[[344年]]1月、石虎は太武殿で群臣を宴会を行うと、白雁百羽余りが馬道に南に集まった。石虎はこれを射る様命じたが、誰も当てる事が出来なかった。趙攬は密かに石虎へ「白雁が庭に集うのは、宮室が将に空となる象徴です。南へ行くべきではありません」と告げた。石虎はこの時、三方へ出征を計画しており、諸州の兵百万余りを集めていたが、趙攬の進言を聞き入れて征伐を中止した。宣武
石虎は頻繁に作役を行ったので、百姓は悩み苦しんでいた。[[347年]]8月、近郡の男女16万人、車10万乗を徴発し、華林苑の造営の為と北に長壁を築く為、土を運ばせた。趙攬は[[石璞]]・[[申鍾]]と共に上疏して「今、天文は錯乱し、百姓は疲弊しております。また、苦役を大興するのは明主のやる事ではありません。どうか民を惜しんでくださいますよう」と述べた。その言葉は甚だ切直であったが、石虎は「苑や壁が朝に完成したならば、我は夕に死のうとも恨みはない」と言い放ち、趙攬らの要請を容れなかった。
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== 参考文献 ==
* 『[[晋書]]』巻106 , 巻107
* 『[[資治通鑑]]』巻96 - 巻98
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