「開拓使」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルアプリ編集 iOSアプリ編集
26行目:
 
明治4年(1871年)10月に東久世長官が辞職すると、黒田が次官のまま、東京にあって開拓使の長となった。明治5年([[1872年]])10月、[[松前藩#館県|旧館県]]であった[[渡島国]]に属する[[福島郡]]・[[津軽郡 (北海道)|津軽郡]]・[[檜山郡]]・[[爾志郡]]の4郡が[[青森県#近代以降の年表|青森県]]から開拓使に移管された。黒田は明治7年([[1874年]])に長官となったが、北海道に赴任せずに東京から指示を出す態勢をとった。黒田は米国人[[ホーレス・ケプロン]]らの[[お雇い外国人|御雇外国人]]を招いて政策の助言と技術の伝習を行わせた。
 
<gallery>
image:William S. Clark.jpg|御雇外国人(クラーク)
32 ⟶ 33行目:
image:ベーマーの写真.jpg|御雇外国人(ベーマー)
</gallery>
 
開拓使は潤沢な予算を用いて様々な開拓事業を推進したが、広大な範囲でなおも全てを完遂するには不足であり、[[測量]]・[[道路]]などの基礎事業を早々に切り上げ、産業育成に重点をおいた。
 
黒田は、北海道の開拓に難渋する現状では自然条件がいっそう不利な樺太まで手が回らないという考えを抱いていた。この方針に反対した岡本の辞任もあって、樺太の開拓は進展しなかった。結局、明治8年([[1875年]])5月に[[樺太・千島交換条約]]によって日本は樺太を手放した。交換の際、日本は[[樺太アイヌ]]を北海道に移住させた。札幌本庁を統括していた[[松本十郎_(開拓使大判官)|松本十郎]]は、[[樺太アイヌ]]を移住させる事に反対して辞任した。松本の辞職で初期の開拓使の高官はほぼいなくなり、かわって黒田を頂点にした[[薩摩国|薩摩]][[藩閥政治|藩閥]]が開拓使を支配した。
 
開拓使は潤沢な予算を用いて様々な開拓事業を推進したが、広大な範囲でなおも全てを完遂するには不足であり、[[測量]]・[[道路]]などの基礎事業を早々に切り上げ、産業育成に重点をおいた。明治9年([[1876年]])には、[[札幌農学校]]と開拓使麦酒醸造所が設立され、現在の[[北海道大学]]、[[サッポロビール]]に至るまでの140年間にわたり、道内外の産業振興に大きな役割を果たすこととなる
 
十年計画の満期が近くなった明治14年([[1881年]])に、黒田は開拓使の事業を継承させるため、部下の官吏に官有の施設・設備を安値で払い下げることにした。これを探知した新聞社は、払い下げの主役を薩摩の政商[[五代友厚]]だと考えて攻撃した。これが、明治時代最大級の[[疑獄]]事件である[[開拓使官有物払下げ事件]]である。