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1797年10月、[[ナポレオン]]がオーストリアと[[カンポ・フォルミオ条約]]を結んだ<ref>『イタリア史』 338頁</ref>。[[チザルピーナ共和国]]と[[リーグレ共和国]]の独立が承認され、しかし旧ヴェネツィア共和国の大半はオーストリアに譲渡された。1801年、[[エトルリア王国]]が成立した<ref name=it343>『イタリア史』 277頁</ref>。1802年、フランスがサルデーニャ王国を併合した<ref name=it343 />。1805年、リーグレも併合され、[[イタリア王国 (1805年-1814年)|衛星国としてのイタリア王国]]に旧ヴェネツィアが統合された<ref name=it343 />。1806年、フランスがナポリ王国を支配し[[カルボナリ]]が誕生した。[[入会地]]が[[コムーネ]]に割譲され、それをコムーネが農民一人ひとりに分配し、残りを旧領主のものとした<ref>『イタリア史』 347-348頁</ref><ref group=注釈>日本でも[[地券]]発行の際に共同用益権を破壊した。</ref>。貧しい農民は譲り受けた狭い農地で生活することができず売却するしかなかったので<ref>『イタリア史』 348頁</ref>、入会地の復活を求めて[[イタリア統一運動|リソルジメント]]まで争い続けた。シチリア島はイギリスへ穀物とワインを供給したり、[[大陸封鎖令]]で排除されているイギリス製品を密輸出していた<ref name=it350>『イタリア史』 350頁</ref>。ナポリから[[ブルボン家|ブルボン王家]]が同島のパレルモへ逃れたが、1811年に[[ウィリアム・キャヴェンディッシュ=スコット=ベンティンク (第4代ポートランド公爵)|ウィリアム・ベンティンク]]が同地へイギリス全権の司令官として着任すると、ブルボン家が島の議会に貿易の上納金を課していた問題に介入・調停した<ref name=it350 />。これにより、後のリソルジメントで[[ジュゼッペ・ガリバルディ]]の遠征軍が[[エトナ火山]]にある[[ネルソン提督]]の所領を農民反乱から保護するほどの地盤を築いた<ref>『イタリア史』 403頁</ref>。イギリスとイタリアの関係は[[レモン]]に始まり、最終的に[[グリエルモ・マルコーニ]]という輝かしい結晶を生む。
 
[[ウィーン体制]]はサルデーニャ王国の版図を復旧させた。この王国はリーグレを併合したとき、[[サン・ジョルジョ銀行]]の負債を継承した。オーストリア勢力がミラノまで回復し、[[ロンバルド=ヴェネト王国]]ができた。ヴェネツィアには重い関税がのしかかった。[[両シチリア王国]]の誕生によりスペインに隠れてイギリスが勢力を回復した。一方で[[ブルボン=パルマ家]]の反動政治が挫折し、[[パルマ公国]]はナポレオン時代の制度を大部分において継承した。パルマはリソルジメントのとき、サルデーニャの正規軍が[[ナポレオン3世]]の許諾を得てナポリへガリバルディ勢力を牽制しに行く出発点となる。[[1848年革命]]が三大保守国家に[[コペルニクス的転回]]をもたらした。[[トスカーナ大公国]]、サルデーニャ王国、教皇国家に憲法が発布された<ref name=it376>『イタリア史』 376頁</ref>。各国の憲法はいずれも、フランスの[[1830年憲章]]と[[ベルギー]]の1831年憲法をモデルとしていた<ref name=it376 />。サルデーニャ王国では憲法発布と前後して[[ワルドー派]]と[[ユダヤ人]]に対する法的差別が撤廃された<ref>『イタリア史』 377頁</ref>。なお、[[グレゴリウス16世 (ローマ教皇)|グレゴリウス16世]]は教皇となるまでに[[ロスチャイルド]]から[[:en:Rothschild loans to the Holy See|40万ポンド]]を借り入れていた<ref>Gerald Posner, ''God's Bankers: A History of Money and Power at the Vatican'', Simon and Schuster, 2015, [https://books.google.co.jp/books?id=o0prBgAAQBAJ&pg=PA12&dq=In+1831+Pope+Gregory+XVI+borrowed+%C2%A3400,000+from+the+Rothschilds&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjIoMu64qjeAhXCc3AKHWwUBfEQ6AEIKDAA#v=onepage&q=In%201831%20Pope%20Gregory%20XVI%20borrowed%20%C2%A3400%2C000%20from%20the%20Rothschilds&f=false p.12]</ref>。
 
[[イタリア統一運動#第2次イタリア独立戦争|第二次イタリア独立戦争]]及び[[イタリア統一運動#第3次イタリア独立戦争|第三次イタリア独立戦争]]により、1859年から1866年までの間に現在のイタリアの大部分の統一がもたらされた(リソルジメント)<ref>{{cite web|url=http://library.thinkquest.org/TQ0312582/unification.html |title=Unification of Italy |publisher=Library.thinkquest.org |date=4 April 2003 |accessdate=19 November 2009}}</ref>。しかしこれはサルデーニャ王国がフランスと連携して行ったもので、ナショナリズムが捨て置かれたので歴史学では統一戦争という表現が適切でないとされている<ref name=it394>『イタリア史』 394頁</ref>。第二次イタリア戦争の講和で、オーストリアがロンバルディアをフランスに譲渡し、フランスがそれをサルデーニャへ譲るという有様であった<ref name=it394 />。サルデーニャ王国の[[カミッロ・カヴール]]は英仏から[[外債]]と材料を調達し鉄道を敷設したが、鉄鋼業に注文はゆかず膨大な負債だけが新生イタリア王国に継承された{{Refnest|group=注釈|カヴールは1000ヘクタールの所有地に土地改良と技術革新を施し経営した<ref>『イタリア史』 373頁</ref>。1850年10月、農商大臣となった<ref>『イタリア史』 387頁</ref>。視察経験を活かし、列強各国と通商条約を結んで自由貿易を推進した。鉄道だけでなく、海運、灌漑、銀行にも公的資金を積極的に投入した<ref>『イタリア史』 390頁</ref>。}}。フランスは「独立」を支援した見返りとして[[サヴォイア]]を譲り受けたが<ref>『イタリア史』 393頁</ref>、1864年[[フランス銀行]]がサヴォワ銀行の発券機能を買収し、フランスとしてピエモンテからサルデーニャ島までの政治経済を支配することとなった。