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== 経歴 ==
穆平国([[穆寿
[[485年]]([[太和 (北魏)|太和]]9年)、[[宕昌国|宕昌]]王梁弥機が死去し、子の梁弥博が立ったが、[[吐谷渾]]の攻撃を受けて、仇池に逃亡した。穆亮は梁弥博が従順でないことから、梁弥機の兄の子の梁弥承を立てるよう上表して、孝文帝に聞き入れられた。穆亮は3万の兵を率いて、龍鵠にいたり、吐谷渾を撃退して、梁弥承を立てて帰還した。ときに[[階陵県]]比谷の[[羌]]の董耕奴・斯卑らが数千人を率いて、仇池に進攻し、陽遐嶺に駐屯したため、穆亮の副将の楊霊珍が率騎兵を率いてかれらを撃破した。穆亮は[[テイ (民族)|氐]]の豪族の楊阿卜珍を[[広業郡]][[太守]]として任用し、諸族の心をつかみ、治安を安定化させた。
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