「小錦下」の版間の差分

柿本猨に修正。10人を削除(舎人糠虫のことと想定される)。坂合部石敷を削除。
(采女竹羅に修正。)
(柿本猨に修正。10人を削除(舎人糠虫のことと想定される)。坂合部石敷を削除。)
天武天皇12年([[683年]])には、諸国の境界を確定するため、[[諸王五位]]の[[伊勢王]]に従って、小錦下の[[多品治]]と[[中臣大島]]らが巡行に出た。天武天皇13年([[684年]])には、[[三野王]]に従って小錦下の[[采女筑羅]]が[[信濃国|信濃]]の地形を見分した。
 
以上は何らかの事件に付随して人名・冠位が現れたものだが、『日本書紀』の中には小錦下を授けられたことだけが記された例がある。小錦下への到達それ自体に重要性を認めたものである。天武天皇9年([[680年]])の[[朴井子麻呂]]、翌年の[[田中鍛師]]、[[柿本]]、[[田部国忍]]、[[高向麻呂]]、[[粟田真人]]、物部麻呂([[石上麻呂]])、[[中臣大島]]、[[曾禰韓犬]]、[[書智徳]]と無名の10人、さらにその翌年の[[舎人糠虫]] がその例である。
 
さらに、『[[続日本紀]]』の記事から、[[文成覚]]が[[壬申の乱]]での功績により死後[[贈位]]によって小錦下になったことが知られる<ref>『続日本紀』[[霊亀]]2年([[716年]])4月8日条。[[天平宝字]]元年([[757年]])12月9日条。</ref>。[[尾張馬身]]も壬申の功臣だが、生前に小錦下になった<ref>『続日本紀』天平宝字2年([[758年]])4月19日条。</ref>。[[坂合部石敷]]も同じである<ref>『続日本紀』天平宝字元年(757年)12月9日条。</ref>。
*[[難波大形]](草香部大形) - 天武天皇10年([[681年]])1月7日叙位。前は[[大山上]]。
*[[阿曇稲敷]] - 天武天皇10年(681年)3月17日見。『日本書紀』編纂。
*[[采女竹羅|釆女竹羅]](采女筑羅) - 天武天皇10年(681年)7月4日見 - 同13年([[684年]])2月28日。遣新羅大使。信濃の地形を診る。
*[[河辺子首]] - 天武天皇10年(681年)12月10日見。新羅使の饗応に筑紫に派遣。
*[[田中鍛師]] - 天武天皇10年(681年)12月29日叙位。
*[[柿本]] - 天武天皇10年(681年)12月29日叙位。
*[[田部国忍]] - 天武天皇10年(681年)12月29日叙位。
*[[高向麻呂]] - 天武天皇10年(681年)12月29日叙位 - 天武天皇13年([[684年]])4月20日見。遣新羅大使。
*[[曾禰韓犬]] - 天武天皇10年(681年)12月29日叙位。
*[[書智徳]] - 天武天皇10年(681年)12月29日叙位。
*10人 - - 天武天皇10年(681年)12月29日叙位。
*[[舎人糠虫]] - 天武天皇11年([[682年]])1月9日叙位。前は[[大山上]]。
*[[多品治]] - 天武天皇12年([[683年]])12月13日見。諸国の境界画定。
*[[文成覚]] - 贈位。壬申の功臣。
*[[坂合部石敷]]
*[[尾張馬身]]