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=== 大関時代 ===
; 1994年
大関昇進後も順調に土俵を務めていたが、[[1994年]]3月場所で左足首をケガして2場所連続の休場([[公傷制度|公傷]]適用)。同年11月場所前は若ノ花から若乃花と改名したが、右腰を痛めてしまうアクシデントなどで暫く低迷。この間曙を倒して弟貴乃花の優勝の援護射撃をするという場面は見られたものの、自身が優勝を果たすまでにはいかなかった。[[1995年]]11月場所に12勝3敗で弟貴乃花との[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]<ref name="nishonoo23"/>を制して漸く2回目の優勝を果たした。この1番では若乃花が右差し、左上手をなお、これは、'''史上初の兄弟による優勝決定戦'''として、今でも'''若貴対決'''として語り継がれている。引いて寄り立て、右から下手投げを繰り出すと、貴乃花は力無く右膝から崩れ落ちた<ref name="wakatakaketteisen">『大相撲ジャーナル』2017年12月号p46</ref>。翌[[1996年]]の1月場所は自身初の綱取りとなったが、場所直前に罹った[[インフルエンザ]]の影響や肝機能障害による絶不調で、初日から3連敗を喫して4日目から途中休場した<ref name="100retsu"/>。
: 大関昇進後も順調に土俵を務めていたが、[[1994年]]3月場所で左足首をケガして2場所連続の休場([[公傷制度|公傷]]適用)。同年11月場所前は若ノ花から若乃花と改名したが、右腰を痛めてしまうアクシデントなどで暫く低迷。この間曙を倒して弟貴乃花の優勝の援護射撃をするという場面は見られたものの、自身が優勝を果たすまでにはいかなかった。
 
; 1995年
1996年中盤頃から徐々に復調の兆しが見え、1996年11月場所は11勝4敗ながら、史上最多となる幕内5人もの優勝決定戦に進出。だが、1回戦で当場所優勝者の[[武蔵丸光洋|武蔵丸]](当時大関、のち横綱)に敗れ優勝同点に終わった。翌[[1997年]]1月場所は、初日から完璧な相撲で14連勝して14日目に3回目の優勝を決めた。[[千秋楽]]は惜しいところで、武蔵丸に再び負けた為に自身初の全勝優勝はならなかったものの、若乃花の土俵人生の中で最高の相撲を見せた場所となった<ref>なお当時の若乃花は、前場所11勝で優勝同点・直前場所14勝の優勝と、現在の横綱昇進基準で有る「大関で2場所連続優勝、'''それに準ずる成績'''」に当て嵌める勝ち星を挙げながら、当時「11勝留まりでさらに優勝を逃しては『準ずる成績』に該当しない」と全く話題に成らず、結局相撲協会は横綱審議委員会への諮問も見送っている。</ref>(余談だが現役時代は武蔵丸とは14勝24敗と相性が悪く、武蔵丸に敗れて全勝を逃したケースが多かった)。翌3月場所では2度目の綱取りが大いに期待され、その期待に応えるようにも同場所は初日から3連勝と絶好調だった。しかし、3日目の[[旭鷲山昇|旭鷲山]]戦で勝ちながらも倒れ込む際に右[[大腿二頭筋]]を断裂し、またも4日目からの途中休場により綱取りは全くの白紙となってしまう<ref name="100retsu"/>。しかも全治3か月の重傷で、2場所連続休場後の7月場所に復帰したものの、序盤に3連敗する等、絶不調で引退を囁かれるまでになってしまった。この同7月場所、中盤以降は持ち直して何とか8勝7敗と[[勝ち越し]]て引退の危機は乗り切ったが、怪我の箇所を考えると「もう上は望めないのではないか」と言われるまでにもなった。
大関昇進後も順調に土俵を務めていたが、[[1994年]]3月場所で左足首をケガして2場所連続の休場([[公傷制度|公傷]]適用)。同年11月場所前は若ノ花から若乃花と改名したが、右腰を痛めてしまうアクシデントなどで暫く低迷。この間曙を倒して弟貴乃花の優勝の援護射撃をするという場面は見られたものの、自身が優勝を果たすまでにはいかなかった。: [[1995年]]11月場所に12勝3敗で弟貴乃花との[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]<ref name="nishonoo23"/>を制して漸く2回目の優勝を果たした。この1番では若乃花が右差し、左上手をなお、これは、'''史上初の兄弟による優勝決定戦'''として、今でも'''若貴対決'''として語り継がれている。引いて寄り立て、右から下手投げを繰り出すと、貴乃花は力無く右膝から崩れ落ちた<ref name="wakatakaketteisen">『大相撲ジャーナル』2017年12月号p46</ref>。翌[[1996年]]の1月場所は自身初の綱取りとなったが、場所直前に罹った[[インフルエンザ]]の影響や肝機能障害による絶不調で、初日から3連敗を喫して4日目から途中休場した<ref name="100retsu"/>。
 
; 1996年
それでも[[1998年]]3月場所、突如爆発するかのように、初日から完璧な相撲を取り12連勝。13日目に横綱曙に敗れたものの14日目は武蔵丸に勝利し、千秋楽は[[立合い]][[変化 (相撲)|変化]]の[[叩き込み|注文相撲]]で琴錦を下して14勝1敗で4回目の優勝。翌5月場所は3度目の綱取りとなる中、4日目に小城錦と6日目琴錦に苦杯を喫し、さらに11日目には魁皇にも敗れてしまう。それでも他上位陣総崩れの幸運もあって自身最後まで優勝を争い、千秋楽には武蔵丸を破り大関の地位で2場所連続優勝を果たし、5月場所後についに[[横綱]]昇進を決めた<ref name="nishonoo23"/>。但し5月場所は12勝3敗という低いレベルでの優勝で、日本相撲協会からは「もう一場所見るべきではないか」という声もあったが、[[横綱審議委員会]]で反対論は全く出ずに、史上初の兄弟横綱が誕生した。尚大関29場所目での横綱昇進は、当時[[琴櫻傑將|琴櫻]]に次ぐ史上2位のスロー昇進だった(現在は1位タイの琴櫻・武蔵丸の32場所、3位の[[稀勢の里寛|稀勢の里]]の31場所に次ぎ史上4位)。またこの昇進を最後に、日本出身の横綱は[[2017年]](平成29年)1月場所後に稀勢の里が横綱昇進を果たすまで19年に渡り1人も誕生しない状態が続いた。
: [[1996年]]の1月場所は自身初の綱取りとなったが、場所直前に罹った[[インフルエンザ]]の影響や肝機能障害による絶不調で、初日から3連敗を喫して4日目から途中休場した<ref name="100retsu"/>。1996年中盤頃から徐々に復調の兆しが見え、1996年11月場所は11勝4敗ながら、史上最多となる幕内5人もの優勝決定戦に進出。だが、1回戦で当場所優勝者の[[武蔵丸光洋|武蔵丸]](当時大関、のち横綱)に敗れ優勝同点に終わった。
; 1997年
1996年中盤頃から徐々に復調の兆しが見え、1996年11月場所は11勝4敗ながら、史上最多となる幕内5人もの優勝決定戦に進出。だが、1回戦で当場所優勝者の[[武蔵丸光洋|武蔵丸]](当時大関、のち横綱)に敗れ優勝同点に終わった。翌: [[1997年]]1月場所は、初日から完璧な相撲で14連勝して14日目に3回目の優勝を決めた。[[千秋楽]]は惜しいところで、武蔵丸に再び負けた為に自身初の全勝優勝はならなかったものの、若乃花の土俵人生の中で最高の相撲を見せた場所となった<ref>なお当時の若乃花は、前場所11勝で優勝同点・直前場所14勝の優勝と、現在の横綱昇進基準で有る「大関で2場所連続優勝、'''それに準ずる成績'''」に当て嵌める勝ち星を挙げながら、当時「11勝留まりでさらに優勝を逃しては『準ずる成績』に該当しない」と全く話題に成らず、結局相撲協会は横綱審議委員会への諮問も見送っている。</ref>(余談だが現役時代は武蔵丸とは14勝24敗と相性が悪く、武蔵丸に敗れて全勝を逃したケースが多かった)。翌3月場所では2度目の綱取りが大いに期待され、その期待に応えるようにも同場所は初日から3連勝と絶好調だった。しかし、3日目の[[旭鷲山昇|旭鷲山]]戦で勝ちながらも倒れ込む際に右[[大腿二頭筋]]を断裂し、またも4日目からの途中休場により綱取りは全くの白紙となってしまう<ref name="100retsu"/>。しかも全治3か月の重傷で、2場所連続休場後の7月場所に復帰したものの、序盤に3連敗する等、絶不調で引退を囁かれるまでになってしまった。この同7月場所、中盤以降は持ち直して何とか8勝7敗と[[勝ち越し]]て引退の危機は乗り切ったが、怪我の箇所を考えると「もう上は望めないのではないか」と言われるまでにもなった
: 翌3月場所では2度目の綱取りが大いに期待され、その期待に応えるようにも同場所は初日から3連勝と絶好調だった。しかし、3日目の[[旭鷲山昇|旭鷲山]]戦で勝ちながらも倒れ込む際に右[[大腿二頭筋]]を断裂し、またも4日目からの途中休場により綱取りは全くの白紙となってしまう<ref name="100retsu"/>。しかも全治3か月の重傷で、2場所連続休場後の7月場所に復帰したものの、序盤に3連敗する等、絶不調で引退を囁かれるまでになってしまった。この同7月場所、中盤以降は持ち直して何とか8勝7敗と[[勝ち越し]]て引退の危機は乗り切ったが、怪我の箇所を考えると「もう上は望めないのではないか」と言われるまでにもなった。
; 1998年
: それでも[[1998年]]3月場所、突如爆発するかのように、初日から完璧な相撲を取り12連勝。13日目に横綱曙に敗れたものの14日目は武蔵丸に勝利し、千秋楽は[[立合い]][[変化 (相撲)|変化]]の[[叩き込み|注文相撲]]で琴錦を下して14勝1敗で4回目の優勝。翌5月場所は3度目の綱取りとなる中、4日目に小城錦と6日目琴錦に苦杯を喫し、さらに11日目には魁皇にも敗れてしまう。それでも他上位陣総崩れの幸運もあって自身最後まで優勝を争い、千秋楽には武蔵丸を破り大関の地位で2場所連続優勝を果たし、5月場所後についに[[横綱]]昇進を決めた<ref name="nishonoo23"/>。但し5月場所は12勝3敗という低いレベルでの優勝で、日本相撲協会からは「もう一場所見るべきではないか」という声もあったが、[[横綱審議委員会]]で反対論は全く出ずに、史上初の兄弟横綱が誕生した。尚大関29場所目での横綱昇進は、当時[[琴櫻傑將|琴櫻]]に次ぐ史上2位のスロー昇進だった(現在は1位タイの琴櫻・武蔵丸の32場所、3位の[[稀勢の里寛|稀勢の里]]の31場所に次ぎ史上4位)。またこの昇進を最後に、日本出身の横綱は[[2017年]](平成29年)1月場所後に稀勢の里が横綱昇進を果たすまで19年に渡り1人も誕生しない状態が続いた
: ただし5月場所は12勝3敗という低いレベルでの優勝で、日本相撲協会からは「もう一場所見るべきではないか」という声もあったが、[[横綱審議委員会]]で反対論は全く出ずに、史上初の兄弟横綱が誕生した。なお大関29場所目での横綱昇進は、当時[[琴櫻傑將|琴櫻]]に次ぐ史上2位のスロー昇進だった(現在は1位タイの琴櫻・武蔵丸の32場所、3位の[[稀勢の里寛|稀勢の里]]の31場所に次ぎ史上4位)。またこの昇進を最後に、日本出身の横綱は[[2017年]](平成29年)1月場所後に稀勢の里が横綱昇進を果たすまで19年に渡り1人も誕生しない状態が続いた。
 
=== 横綱時代 ===