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{{政治家
[[画像:Hans Eichel.jpg|thumb|アイヒェル(2004年)]]
|各国語表記 = Wolfgang Schäuble
'''ハンス・アイヒェル'''(Hans Eichel、[[1941年]][[12月24日]]‐)は、[[ドイツ]]の[[政治家]]([[ドイツ社会民主党]])。1999年‐2005年、[[ゲアハルト・シュレーダー]]内閣で財務大臣を務めた。その他1975年‐1991年に[[カッセル]]市長、1991年‐1999年に[[ヘッセン州]]首相を歴任。
|画像 = WSchaeuble.jpg
|画像説明 = ヴォルフガング・ショイブレ(2006年3月)
|国略称 = {{GER}}
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1942|9|18}}
|出生地 = {{GER}} [[フライブルク・イム・ブライスガウ|フライブルク]]
|没年月日 =
|死没地 =
|出身校 =
|所属政党 = [[ドイツキリスト教民主同盟]]
|称号・勲章 =
|配偶者 = Ingeborg Schäuble(1969年 - )
|愛称 =
|サイン =
|ウェブサイト = http://www.wolfgang-schaeuble.de/
|サイトタイトル = Dr. Wolfgang Schäuble MdB: Dr. Wolfgang Schäuble MdB
 
|国旗 = ドイツ
|職名 = [[ドイツ連邦議会]]議長
|就任日 = [[2017年]][[10月24日]]
|退任日 =
|退任理由 =
|元首職 =
|元首 =
 
|国旗2 = ドイツ
|職名2 = 財務相
|内閣2 = [[第2次メルケル内閣]]<br />[[第3次メルケル内閣]]
|選挙区2 =
|当選回数2 =
|就任日2 = [[2009年]][[10月28日]]
|退任日2 = [[2017年]][[10月24日]]
|退任理由2 =
|元首職2 =
|元首2 =
 
|国旗3 = ドイツ
|職名3 = 内相
|内閣3 = 第1次メルケル内閣
|就任日3 = [[2005年]][[11月22日]]
|退任日3 = [[2009年]][[10月27日]]
 
|内閣4 = 第3次[[ヘルムート・コール]]内閣
|就任日4 = [[1989年]][[4月21日]]
|退任日4 = [[1991年]][[11月26日]]
 
|国旗5 = ドイツ
|職名5 = 国務相兼首相府長官
|内閣5 = 第2次ヘルムート・コール内閣
|就任日5 = [[1984年]][[11月15日]]
|退任日5 = [[1989年]][[4月21日]]
 
|国旗6 = ドイツ
|その他職歴1 = 第6代 [[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主同盟]] 党首
|就任日6 = [[1998年]]
|退任日6 = [[2000年]]
}}
'''ヴォルフガング・ショイブレ'''('''Wolfgang Schäuble''', [[1942年]][[9月18日]] - )は、[[ドイツ]]の[[政治家]]。[[ドイツ|ドイツ連邦共和国]]財務相([[第2次メルケル内閣|第2次]]-[[第3次メルケル内閣]])。2017年より[[ドイツ連邦議会]]議長。
 
ドイツ連邦共和国国務相兼首相府長官(第2次[[ヘルムート・コール]]内閣)、ドイツ連邦共和国内相(第3次コール内閣・第1次メルケル内閣)、[[ドイツキリスト教民主同盟|ドイツキリスト教民主同盟(CDU)]][[党首]]などを歴任した。
 
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
[[ヘッセン州]][[カッセル]]出身。1961年から[[フィリップ大学マールブルク|マールブルク大学]]、[[ベルリン自由大学]]で[[ドイツ文学]]、[[哲学]]、[[政治学]]、[[歴史学]]、[[教育学]]を学ぶ。1970年、[[ギムナジウム]]教員資格を取得。1975年までカッセル市教育委員。1964年、[[ドイツ社会民主党]] (SPD) に入党。1969年に同党下部組織にあたる社会主義青年団 (Jusos) の連邦代表委員、1972年まで同副代表。
[[1942年]][[9月18日]]、[[フライブルク・イム・ブライスガウ|フライブルク]]に生まれる。[[1961年]]、[[アビトゥーア]]に合格。[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]と[[ハンブルク大学]]で法学と経済学を学ぶ。[[1966年]]、第一次法曹試験に合格し大学を修了。[[1970年]]、第二次法曹試験に合格。[[1971年|翌年]]、[[法学博士]]号を取得する。同時に[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]の税務署で働くようになり、後にフライブルクの税務署の管理部門主任となる。[[1978年]]から[[1984年]]までは[[オッフェンブルク]]で[[弁護士]]として働いた。
 
弟トーマスも政治家で、[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]内相を務めた。ショイブレは経済学者の夫人との間に四子をもうける。娘の一人はCDUの[[ドイツ連邦議会|連邦議会]]議員(CDUの同州事務局長)と結婚している。
1968年に27歳で故郷カッセルの市議会議員に当選(‐1975年)。1970年から同市議会の SPD 院内総務。さらに1975年、33歳の若さでカッセル市長に当選、1991年まで3期16年にわたり市長を務めた。カッセル市長として、5年に一度同市で開催される現代美術の大展覧会[[ドクメンタ]]の監査役を三度務める。この間1984年に党のヘッセン州代表委員、1989年には SPD ヘッセン州代表に就任(2001年まで)。
 
[[1992年]]に[[フリードリヒ・アレクサンダー大学エアランゲン=ニュルンベルク|エアランゲン・ニュルンベルク大学]]から、[[2005年]]11月に母校フライブルク大学から、[[2009年]]6月に[[エバーハルト・カール大学テュービンゲン|テュービンゲン大学]]から、それぞれ名誉博士号を授与された。
1991年の州議会選挙では SPD は僅差で第一党になり SPD と[[同盟90/緑の党|緑の党]]の連立政権が成立、州首相候補として選挙を指揮したアイヒェルはヘッセン州首相に就任し、4年ぶりに[[ドイツキリスト教民主同盟|キリスト教民主同盟]] (CDU) から政権を奪還した。同時にアイヒェルはヘッセン州議会議員に当選し、SPD 連邦代表委員に就任。1995年の州議会選挙では、第一党の座を連邦内相を務める[[マンフレート・カンター]]を看板に立てた CDU に奪回されたが、同盟90/緑の党との連立を維持することで政権を維持した。しかし1999年の州議会選挙では[[ローラント・コッホ]]率いる CDU に敗れ、4月7日にヘッセン州首相の座を退いた(州議会議員も辞職)。
 
[[ファイル:EinigungsvertragBRD-DDR.JPG|thumb|ドイツ外務省に保管されている、東西ドイツ統一条約文書。ページ左側に'''ショイブレ'''の署名がある]]
=== 財務大臣 ===
しかし折しも連邦政府の[[ゲアハルト・シュレーダー]]内閣では、SPD 党首で党内左派の重鎮[[オスカー・ラフォンテーヌ]]財務相が政権運営の路線対立から辞表を叩きつけていた。州首相辞任からわずか5日後の1999年4月12日、アイヒェルはラフォンテーヌの後任として連邦財務相に就任した。同年、SPD 連邦執行部委員。2000年5月、低迷するドイツ経済にテコ入れするためアイヒェルは広範な税制改革を開始した。折しもドイツは欧州共同通貨[[ユーロ]]導入を控えて財政赤字の圧縮が[[欧州連合]]から求められており、従来の社会保障重視路線と均衡財政路線との間でアイヒェルは苦慮することになった。2002年の[[ドイツ連邦議会]]選挙には地元カッセル選挙区から出馬して比例代表リストから当選、連邦議会議員になり、第二2次シュレーダー内閣に財務相として留任した。
 
=== 政界入り ===
一向に減らない連邦政府の財政赤字はマスコミに叩かれ、アイヒェルを無能扱いする論調さえあったが、これは財務相個人の職責で変えられるものではないので気の毒な面もあった。さらに不評だったのは2004年11月にアイヒェルが発表した案で、祝日である10月3日の[[ドイツ統一の日]]を土曜か日曜の[[移動祝日]]に変更し、それによって多すぎる休みが減り、逆に勤務日が増えて商店も開き、経済効率が一日分上がり税収増にもなる、というアイデアだった。なりふり構わぬ政府のアイデアは[[ホルスト・ケーラー]]大統領はじめあらゆる方面の非難を浴び、アイヒェルはこの案をすぐに引っ込めざるを得なくなった。シュレーダー政権は大規模な社会保障・保険改革に乗り出したが国民には不評で、2005年の連邦議会選挙に僅差ながら敗れ、ついに退陣に追い込まれた。[[アンゲラ・メルケル]]内閣が正式発足した11月22日にアイヒェルは財務相から離職した。同時に党の連邦代表委員を辞した。皮肉なことに、アイヒェルの退任後にドイツ経済は上向きに転じ始めている。
政治活動に参加したきっかけは、[[1961年]]に[[ドイツキリスト教民主同盟]](CDU)の青年部(Junge Union)に参加したことである。在学中、ハンブルク大学のキリスト教民主主義学生連盟(RCDS)代表を務める。[[1965年]]にCDU党員となり、[[1969年]]から[[1972年]]まで南バーデンの青年部委員長を務める。
 
[[1972年]]、連邦議会に初当選。[[1976年]]から[[1984年]]まで党のスポーツ委員会委員長を務め、[[1981年]]から[[1984年]]までは連邦議会院内総務も務めた。
2008年4月、翌年に控えたドイツ連邦議会総選挙に出馬せず政界を引退することを発表した。
 
=== 家族・人物コール内閣 ===
[[1984年]]、第2次[[ヘルムート・コール]]内閣に[[国務大臣]]兼首相府長官として入閣。[[1987年]]、[[ドイツ民主共和国|ドイツ民主共和国(東ドイツ)]][[国家評議会議長]][[エーリッヒ・ホーネッカー]]による[[西ドイツ]]訪問の交渉責任者となった。内閣改造による第3次コール政権の成立に伴い、[[1989年]]4月から内相に転じる。[[1990年]]の[[統一条約|東西ドイツ再統一条約]]交渉には西ドイツ側代表として参加し、同年8月31日に調印した。
連邦議会選挙の前倒し実施が決まった直後の2005年7月に2度目の結婚をした。1999年に離婚した前妻との間に2児がある。
 
[[ドイツ再統一]]直後に行われた連邦議会選挙戦の最中である[[1990年]]12月、精神病の男性に背後から銃撃を受け、脊髄に重傷を負う。命は取り留めたものの下半身麻痺となり、以後は[[車椅子]]生活を送っている。犯人の男性は責任能力無しとみなされ精神病院に収容されたが、後にこの事件を謝罪し、[[2004年]]には仮退院した。この選挙戦では野党[[ドイツ社会民主党]](SPD)の首相候補[[オスカー・ラフォンテーヌ]]も精神病の女性に刺され、瀕死の重傷を負っている。
 
[[ファイル:Wolfgang Schäuble.Pfingstmontag.Wallenstein.4018.jpg|thumb|観劇する'''ショイブレ'''と夫人(2007年、ベルリン)]]
 
=== CDU党首 ===
[[1991年]]から[[2000年]]まで、CDU・CSU連邦議会議員団長を務める。ショイブレはコールの後継者と見なされたが、コールはなかなか党首の地位を明け渡そうとせず、[[1997年]]にショイブレを後継党首に指名したものの、少なくとも[[2002年]]までは党首に留まるつもりであると宣言した。しかし、首相・党首の座に執着したコールは[[1998年]]の連邦議会選挙で大敗してSPDによる政権交代を許し、辞任に追い込まれた。
 
コールの辞任直後にショイブレがCDU党首に就任するが、翌年になって、コール党首時代の[[1994年]]にショイブレが武器商人からCDU宛に10万[[ドイツマルク]]の不正献金を受けていた疑惑が発覚する。最初は沈黙していたが、2000年1月になってこれを認めて謝罪し、2月に党首を辞任した。後任党首には幹事長[[アンゲラ・メルケル]]が選出された。なお、[[汚職]]罪の追及は証拠不十分で捜査が停止された。
 
[[2001年]]、[[ベルリン]]市長[[エーベルハルト・ディープゲン]]のリコールに伴う選挙では、市長候補としてショイブレを推す声もあったが、スキャンダルの直後だけに地元議員に拒否された。2004年にも党重鎮として[[連邦大統領 (ドイツ)|大統領]]選挙候補に取りざたされたが、クリーンなイメージに欠けるとの理由で早々に外された。
 
=== メルケル内閣 ===
[[2002年ドイツ連邦議会選挙]]後には党副幹事長に就任していたが、[[2005年]]11月のアンゲラ・メルケル政権成立に伴い、14年ぶりに再び内相として入閣する。この入閣にも批判する声があった。
 
[[2009年ドイツ連邦議会選挙]]後は連立組み替えにより財務相に転じ、[[2013年ドイツ連邦議会選挙]]後に発足した第3次メルケル内閣でも財務相に留任した。
 
[[2017年ドイツ連邦議会選挙|2017年ドイツ連邦議会総選挙]]でも[[オッフェンブルク]]選挙区で48.1%の票を得て当選した。1972年から45年以上のドイツ連邦議会所属が確実となり、これはドイツ連邦議会史上最長である。10月24日にはCDU・CSUの指名により、ドイツ連邦議会議長に選出され、同時に財務相を退任<ref>{{Cite news|url=https://jp.reuters.com/article/germany-chauble-idJPKBN1CU04N|title=独下院、議長にショイブレ前財務相を選出|work=ロイター|publisher=[[ロイター]]|date=2017-10-25|accessdate=2017-10-25}}</ref>。
 
== 政治姿勢 ==
=== 保守強硬派 ===
ショイブレは、CDUの中でも[[保守派]]とみなされている。
* [[1991年]]、統一ドイツの首都を[[ボン]]からベルリンに戻すことが決められたが、その決定にはショイブレの国会演説が大きな役割を果たした。
* [[ヨーロッパ大陸]]の中央に位置する[[神聖ローマ帝国]]の歴史に照らして、[[愛国主義]]は健全な国民意識であり、ヨーロッパの理念と対立するものではないと肯定的に捉えている。
* エリート層に対しては、エリートとしての意識を持つことを主張している。
* 学校での[[イスラム教]]の宗教教育には賛成しているが、宗教的シンボルとしてのスカーフ着用には「ヨーロッパの価値観にそぐわない」として反対している。
* SPDの[[ゲアハルト・シュレーダー]]政権が進めた国籍法改正に反対し、同化主義を主張して二重国籍制度に反対するキャンペーンを繰り広げた。
 
メルケル政権の内相時代には強硬な姿勢が指摘された。
* 内相時代は[[対テロ戦争]]を想定して国内の治安維持に[[ドイツ連邦軍]]が出動出来るよう[[ドイツ連邦共和国基本法|憲法]]改正を主張した。
* テロ危険人物の収容施設設置や、国外でのテロリストに対する拷問により得られた情報の利用を提案し、野党のみならず[[大連立]]の相手であるSPDからも強い反対を受けた。
* オンライン捜査を認める憲法改正も主張する。
* ドイツ国内で開催された[[2006 FIFAワールドカップ]]や[[第33回主要国首脳会議]]([[ハイリゲンダム]]・サミット)の際は、治安維持や反[[グローバリゼーション]]活動家対策のため、[[欧州連合|EU]]内のドイツ国境での入国審査を一時的に復活させた。このような姿勢は旧東ドイツの「[[シュタージ]]」のような監視国家体制に繋がると非難された。
* [[2017年]]1月に{{仮リンク|ヴェルト・アム・ゾンターク|de|Welt am Sonntag|en|Welt am Sonntag}}のインタビューを受けて、[[2015年]]からのドイツの難民受け入れ政策について「私たち政治家は人間であり、私たちは誤りを犯した。しかし、人というものは少なくとも誤りから学ぶことができる。」<ref>ドイツ語での本人発言は {{lang|de|„Wir Politiker sind Menschen, auch wir machen Fehler. Aber man kann wenigstens aus Fehlern lernen.“}}</ref>と発言し、難民受け入れ政策が失敗であったとの認識を示した<ref>[https://www.welt.de/politik/deutschland/article161606839/Einiges-ist-uns-2015-aus-dem-Ruder-gelaufen.html 難民保護: ショイブレが難民政策の誤りを認める - ヴェルト {{lang|de|(Asyl: Schäuble gesteht Fehler in Flüchtlingspolitik ein - WELT)}}] {{de icon}} - 2017年1月29日</ref>。
 
=== 財務相として ===
[[2010年欧州ソブリン危機|ユーロ圏ソブリン危機]]の渦中に財務省に就任したが、[[2011年]][[11月29日]]のユーロ圏財務相会議([[ブリュッセル]])に先立ち、「例えば[[リスボン条約]]第14条などの限定的な条約により、欧州の機関が安定成長協定の責務を強化することが可能になるよう望む」と発言する<ref>[http://www.bloomberg.co.jp/news/123-LVFNUW07SXKX01.html ショイブレ財務相:ドイツは財政規律強化に向けた条約変更を望む] 2011年11月29日付 Bloomberg.co.jp</ref>。
 
同年12月6日、[[スタンダード&プアーズ]](S&P)がユーロ圏15カ国の長期・短期ソブリン信用格付けを引き下げ方向で見直すと声明したことに対し、「全世界の市場は今ユーロ圏を全く信用していない」「S&Pの見直し声明は、欧州の首脳らに約束を果たすこと、つまり必要な決定を一つ一つ下し、世界の投資家の信頼を回復することを促す」と評し<ref>[http://www.bloomberg.co.jp/news/123-LVSEUZ1A1I4H01.html S&Pはユーロ圏の応援団、警告は首脳らへの「激励」-独財務相] 2011年12月6日付 Bloomberg.co.jp</ref>、「非常に誇張したもので公正でない」<ref>[http://jp.reuters.com/article/jp_eurocrisis/idJPTYE7B504920111206 S&Pユーロ圏格付け見直し、非常に誇張したもの─ユーロG議長=報道] 2011年12月6日付 ロイター・ジャパン</ref>と批判した[[ユーログループ]]議長の[[ジャン=クロード・ユンケル]]と対照的な態度を示した。その一方、[[欧州委員会]]が2011年[[11月23日]]に打開策として提案した<ref>[http://www.bloomberg.co.jp/news/123-LWIH7S0D9L3501.html ユーロ共同債、発行に向けて取り組み前進を-欧州議会の経済委員会] 2011年12月20日付 Bloomberg.co.jp</ref>ユーロ共同債については「まず各国の財政規律の強化が確実になってから」と否定的な見解を示した<ref>[http://www.bloomberg.co.jp/news/123-LVDP8B0UQVI901.html ドイツ財務相:ユーロ共同債の議論は「安定同盟」の達成後に可能に] 2011年11月28日付 Bloomberg.co.jp</ref>。
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 外部リンク ==
{{commonscat|Wolfgang Schäuble}}
* [http://www.hans-eichel-kassel.de/ アイヒェルのホームページ]{{De icon}}
* [http://www.wolfgang-schaeuble.de/ 公式ホームページ] {{de icon}}
* [http://www.bundestag.de/bundestag/abgeordnete/bio/S/schaewo0.html ドイツ連邦議会 経歴紹介]{{リンク切れ|date=2017年12月}} {{de icon}}
 
 
{{Start box}}
{{先代次代|ドイツ連邦共和国財務大臣|[[1999年]] - [[2005年]]|[[オスカー・ラフォンテーヌ]]|[[ペール・シュタインブリュック]]}}
{{S-par}}
{{先代次代|[[ヘッセン州]]首相|[[1991年]] - [[1999年]]|[[ヴァルター・ヴァルマン]]|[[ローラント・コッホ]]}}
{{Succession box
| title = {{flagicon|GER}} [[ドイツ連邦議会|ドイツ連邦議会議長]]
| years = 2017 -
| before = [[ノルベルト・ランメルト]]
| after = 現職
}}
{{S-off}}
{{Succession box
| title = {{flagicon|GER}} ドイツ連邦共和国連邦財務大臣
| years = 2009 - 2017
| before = [[ペール・シュタインブリュック]]
| after = {{仮リンク|ペーター・アルトマイヤー|en|Peter Altmaier}}
| afternote = (暫定)
}}
{{Succession box
| title = {{flagicon|GER}} ドイツ連邦共和国連邦内務大臣
| years = 2005 - 2009
| before = [[オットー・シリー]]
| after = [[トーマス・デメジエール]]
}}
{{Succession box
| title = {{flagicon|GER}} ドイツ連邦共和国連邦内務大臣
| years = 1989 - 1991
| before = [[フリードリッヒ・ツィンマーマン]]
| after = [[ルドルフ・ザイタース]]
}}
{{Succession box
| title = {{flagicon|GER}} ドイツ連邦共和国連邦首相府長官
| years = 1984 - 1989
| before = [[ヴァルデマー・シュレッケンベルガー]]
| after = [[ルドルフ・ザイタース]]
}}
{{S-ppo}}
{{Succession box
| title = [[ドイツキリスト教民主同盟]]党首
| years = 第6代:1998 - 2000
| before = [[ヘルムート・コール]]
| after = [[アンゲラ・メルケル]]
}}
{{End box}}
 
{{DEFAULTSORT:しよひえるふれ うおるふか}}
[[Category:ヘッセン州首ドイツの内相]]
[[Category:西ドイツの内相]]
[[Category:ドイツの財務相]]
[[Category:市長対麻痺を持つ人物]]
[[Category:フラツ社会民主党ブルク出身政治家人物]]
[[Category:カッセル出身の人物1942年生]]
[[Category:1941年生]]
[[Category:存命人物]]
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