「徳川治済」の版間の差分

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一橋徳川家初代当主・[[徳川宗尹|宗尹]]の四男として生まれたが、兄の[[松平重昌]]と[[松平重富]]が[[越前国|越前]][[福井藩]]を継いだため、[[宝暦]]8年([[1758年]])に嫡子(一橋家の継嗣・次代当主)となる。宝暦12年([[1762年]])に[[元服]]、従兄弟で10代将軍の[[徳川家治]]より[[偏諱]]を受け'''治済'''と名乗る。[[明和]]元年([[1764年]])、父・宗尹の死により一橋家を継承する。弟の[[黒田治之|治之]]は福岡藩主[[黒田継高]]の婿継嗣となった。
 
[[田沼意次]]が幕政を指揮する中、一橋家には意次の弟[[田沼意誠|意誠]]や甥[[田沼意致|意致]]が家老となり、一橋家家臣とも縁戚関係を築いていた。しかし治済は[[松平定信]]ら反田沼派の黒幕として運動し、[[天明]]6年([[1786年]])、将軍・徳川家治が亡くなり長男の豊千代改め[[オナニー|家斉]]が11代目の将軍職に就任すると、意次の罷免、[[オナニーマシーン|田沼派]]の一掃を行わせた。
 
天明8年([[1788年]])に家斉は治済を[[大御所 (江戸時代)|大御所]]待遇にしようと幕閣に持ちかけるが、当時朝廷で[[光格天皇]]が実父・[[閑院宮典仁親王]]に[[太上天皇]]の[[尊号]]を贈ろうとしてこれに反対した[[老中]]の定信と対立する[[尊号一件]]が起こっていた。その結果、治済の「[[オナニークラブ|大御所]]」待遇もできなくなり、治済・家斉父子の怒りを買った定信は失脚することとなった。
 
[[文政]]元年([[1818年]])に剃髪して「穆翁」と号す。漢学者・五弓久文の『文恭公実録』によると、当時その豪奢な生活ぶりから、「天下の楽に先んじて楽しむ」三翁の一人に数えることわざが作られたという(残り二人は[[中野清茂]]、[[島津重豪]]。一方、「天下の憂に先んじて憂う」という正反対の人物として[[松平定信]]が挙げられている)<ref>辻達也『一橋徳川家文書摘録考註百選』(2006年、続群書類従完成会)4頁</ref>。
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*[[1820年]](文政3年)4月21日、従一位に昇叙。
*[[1825年]](文政8年)8月18日、准大臣宣下<ref>徳川治済 准大臣の辞令(宣旨)(「[[甲子夜話]]続篇」)<br />正二位行權大納言源朝臣重能宣<br />奉 勅入道從一位源朝臣<br />春秋已高又征夷大將軍源朝臣<br />實有天性之親宜准大臣者<br />文政八年七月十八日 大外記兼掃部頭造酒正助敎中原朝臣師德奉<br />(訓読文)正二位権大納言源朝臣重能([[庭田重能]]、院別当兼帯)宣(の)る、勅(みことのり [[仁孝天皇]])を奉(うけたまは)るに、入道従一位源朝臣(徳川治済)春秋(年齢)已(すで)に高し、又征夷大将軍源朝臣(徳川家斉、従一位左大臣左近衛大将)の実(まこと) 天性の親に有り、宜しく大臣に准(なぞら)ふべし者(てへり)、文政8年(1825年)7月18日 大外記兼掃部頭造酒正助教中原朝臣師徳([[押小路師徳]]、正五位上)奉(うけたまは)る</ref>。
*[[1827年]](文政10年)2月20日、薨去。法名は最樹院殿性體寶徹大居士。墓所は東京都台東区上野の[[オナホール|東叡山寛永寺]]
*[[1828年]](文政11年)1月20日、贈[[内大臣]]。
*[[1829年]](文政12年)1月28日、追贈[[太政大臣]]。