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しかし、庾亮の厳格な政治方針は、朝廷の人々の反感を買うことも多かった。明帝が死去し、遺詔により重臣たちに褒賞・昇進の沙汰があったとき、[[陶侃]]と[[祖約]]がその選からはずされており、彼らはこれを庾亮の仕業と思い怨みを抱いたという。さらに尚書令の[[卞壼]]や友人の[[温キョウ|温嶠]]をはじめ、朝廷内外あげての反対や慎重論があったにもかかわらず、王敦の乱平定に功績のあった[[蘇峻]]の軍事力を削ぐため、彼を首都建康に召還しようとして失敗、[[327年]]、逆に蘇峻が前述の祖約と結託して反乱を起こし([[蘇峻の乱]])、建康が占領され、成帝が幽閉されるという事態を招いてしまった。
 
反乱軍に敗れた庾亮は弟の[[庾翼]]らと共に[[石頭城]]を脱出し、平南将軍・[[江州 (江西省)|江州]][[刺史]]の温嶠のもとに逃れた。反乱鎮圧のため、庾亮は温嶠の勧めに従い、当時[[鄂城区|武昌]]に鎮し、強大な軍事力を擁していた征西大将軍・[[荊州]]刺史の陶侃に救援を要請する。当初陶侃は前述の経緯で庾亮に対して深い怨みを抱いていたが、庾亮は会見するや、その美貌と優美な立ち居振る舞いで彼を魅了し、さらに宴席の場において、[[ニラ]]の根本を「植えればまた生えてくる」という理由で残すなど、倹約家であった陶侃を感心させた。
 
これらのことから、一転して庾亮に好意を抱くようになった陶侃は、息子の陶瞻が蘇峻に殺されたこともあって、彼と共に反乱鎮圧に協力することを応諾、これによって庾亮は蘇峻のよる石頭城に逆襲をかけ、[[329年]]、ついに反乱を平定することに成功した。