「カルボナリ」の版間の差分

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== 台頭 ==
[[18151814年]]、[[ウィーン会議]]で[[フランスブルボン|ブルボン朝]]の[[王政フランス復古 (ヨーロッパ)王政|王政復古]](restoration)が承認されると共に、ミュラの王位剥奪が決議されると、彼らの攻撃の矛先は、復位したフェルディナンド4世、及びブルボン朝に向けられた。
 
ブルボン復古王政は、山賊や無頼の徒を募ってカルデラリ(Calderari)と称する暴力団を組織し、カルボナリに対して攻撃を仕掛けた。しかし、両者の抗争により生じた社会秩序の混乱は、却って大衆の不満を煽る結果を招いた。カルボナリは、自由主義的思想を有する貴族や中産市民、亡命貴族の復帰によって免職あるいは降格の憂き目に遭った文武官、生活苦に喘ぐ商工業者や小地主、下級官吏や下級僧侶など、現状に不満を抱く幅広い層から支持を集め、その勢力圏を中部・北部イタリアにまで拡大。[[サルデーニャ王国]]の[[ピエモンテ州|ピエモンテ]]では、青年貴族や大学生の間でカルボナリへの加入が流行するまでに至った。
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翌[[1821年]]3月にはピエモンテの州都[[トリノ]]で、やはりカルボナリに指導されたサルデーニャ軍が決起(ピエモンテ革命)。サルデーニャ王子[[カルロ・アルベルト]](Carlo Alberto)を摂政に迎えて自由主義的革命政府を樹立し、憲法発布を実現。国王[[ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世]](Vittorio Emanuele I)は退位し、替わって[[カルロ・フェリーチェ]](Carlo Felice)が即位した。これにより、一時的ながら革命は成功した。なお、カルロ・アルベルトは[[1831年]]、カルロ・フェリーチェの後を継いで国王に即位している。
 
これに対し、北イタリアを領有する[[オーストリア]]は革命の波及を恐れ、鎮圧に乗り出した。宰相[[クレメンス・メッテルニヒ]](Cremens Metternich)は1821年、[[神聖同盟|五国同盟]]の加盟国(英・露・墺・普・仏)をライバッハ(現[[リュブリャナ]])に集め、対応を協議([[ライバッハ会議]])。オーストリア軍の出兵を承認させた。同年[[3月23日]]、オーストリア軍はナポリを占領。4月にはピエモンテに侵入し、カルボナリを中心とする革命軍を破った。
 
なお、スペイン立憲革命もフランス軍の干渉により挫折、指導者リエゴは[[1823年]]に刑死した。
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[[1830年]][[7月27日]]、パリで[[フランス7月革命]]が勃発。この時、シャルボンヌリーは学生、小市民、労働者らと連携。ブルジョアジーの援助を得た約6万人の市民は、[[7月29日]]に[[ルーヴル宮殿]]や[[テュイルリー宮殿]]、[[ノートルダム聖堂]]を占領。3日間の市街戦に勝利した(栄光の3日間)。
 
[[8月2日]]、国王[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]](Charles X)は[[イギリス]]へ亡命し、[[ブルボン朝]]は崩壊。延べ200余年の歴史に幕を下ろす。これに替わり[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]を国王に戴く立憲王政が誕生。新政権にはカルボナリの党員も名を連ねた。
 
== 解体 ==