削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
2行目:
 
== 経歴 ==
袁質([[袁耽]]の子)の子として生まれた。若くして従外祖にあたる[[謝安]]の知遇をえて、その甥の[[謝玄]]の娘を妻に迎えた。はじめ衛軍行参軍となった。員外散騎・通直正員郎・中軍功曹を歴任し、[[桓玄]]の下で太尉参軍事をつとめた。入朝して中書黄門侍郎に任じられ、桓修の下で撫軍長史となった。
 
[[404年]]([[元興 (東晋)|元興]]3年)、[[劉裕]]が桓玄打倒のために起兵すると、袁湛は劉裕の下で鎮軍諮義参軍となった。[[405年]]([[義熙]]元年)、尚書吏部郎に転じた。後に司徒左長史や[[侍中]]に任じられた。劉裕の征戦に従軍した功績により、晋寧県五等男に封じられた。また劉裕の下で太尉長史となった。次いで左民尚書となり、掌吏部に転じた。[[呉興郡]][[太守]]となり、善政で知られた。入朝して[[中書令]]に任じられ、また出向して呉国内史となった。[[416年]]([[義熙]]12年)、尚書右僕射・本州大中正に上った。袁湛は[[太尉]]を兼ね、[[范泰]]らとともに宋公の位と九錫の礼物を劉裕に授与しようとしたが、劉裕は固辞した。袁湛らは劉裕の[[北伐]]に従って[[洛陽]]に入った。范泰らは授与の任を終えていないことを理由に晋の帝陵に参拝しなかったが、袁湛はひとりで五陵に参拝して敬意を表した。