「津田恒実」の版間の差分

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血行障害から復帰してリリーフに転向してからは、[[速球]](ストレート)主体のピッチングであった。特に1986年は投げた球種の90%以上がストレートであり、変化球はほとんど投げていない。津田が現役時代に同僚・監督であった[[山本浩二]]は津田のストレートを「ホップする直球」と称していた<ref name="hochi20120114"/>。
 
ピンチになればなるほど球速が上がっていく傾向があった。1986年の対[[阪神タイガース]]戦、9回裏1死満塁同点(4対4)の場面では、2番打者の[[弘田澄男]]に143km/h・148km/h・151km/hのストレートを投じて3球三振に仕留める。次の3番打者、当時絶頂期にあった[[ランディ・バース]]に対しても全て150km/hを超えるストレートで挑み、3球三振に仕留めピンチを脱した<!--投球後に勢い余ってバッターに背中を向けてしまうほどであった-->。{{要出典範囲|この試合を実況していた[[毎日放送]][[アナウンサー]]の[[城野昭]]は「津田、スピード違反!」と叫び|date=2016年9月}}、バースは試合後に「ツダはクレイジーだ」というコメントを残している<ref>{{Cite web |url=http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180207-11 |title=【プロ野球仰天伝説46】バースを3球三振に仕留めた津田恒実のクレージーな快速球 |publisher=週刊ベースボールONLINE |date=2016年9月2018-02-07 |accessdate=2018-11-03}}</ref>。
 
[[1986年]][[9月24日]]の巨人25回戦で津田と対戦した[[原辰徳]]は、ストレートを[[ファウルボール|ファウル]]した際に左手の[[有鈎骨]]を骨折し、残りシーズンを全て欠場、翌シーズン以降も左手首痛の後遺症に苦しんだ{{Refnest|group=注|しかし後年、原は「折れたことには悔いはなかったですよ。津田というのは、そういうふうに思わせるピッチャーでしたね」と語り<ref>{{Cite web |url=http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180717-10 |title=原の左手を破壊した津田のストレート/プロ野球仰天伝説206 |publisher=週刊ベースボールONLINE |date=2018-07-17 |accessdate=2018-08-31}}</ref>、また直球の速かった投手を問われると必ず「津田、[[小松辰雄|小松]]、[[鈴木孝政]]さん、大学時代の[[江川卓 (野球)|江川]]さん」と真っ先に津田の名を挙げるという<ref>{{Cite web |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1711920.html |title=原氏と津田氏の勝負の絆は今でも生きている/コラム|publisher=日刊スポーツ |date=2016-09-19 |accessdate=2018-08-31}}</ref>。}}。また、[[1991年]][[4月14日]]に津田からタイムリーヒットを打って生涯最後の対戦打者となったのは、奇しくも原である。原に投じた最後のボールは144km/hのストレートであった。
 
[[1986年の日本シリーズ]]で広島は、[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]に初戦引き分けの後3連勝して日本一に王手をかけながら、5戦目の延長12回に[[工藤公康]]にサヨナラ安打を浴び、その後勢いに乗った西武に4連敗、日本一を逃すという屈辱を喫している。この延長12回のサヨナラ安打を浴びたのが、リリーフ登板した津田だった。加えて前日の第4戦でのヒーローインタビューでも、西武打線について聞かれた時に、「なんかあまり迫力がないような気がしました」と発言し、アナウンサーの「西武を怒らせませんかね?」という質問に対しても「大丈夫でしょう」と答えていた。ちなみに広島はこの時以降、日本シリーズには1991年と2016年に進出したものの、一度も日本一にはなっていない
 
== 人物 ==