「楊子崇」の版間の差分

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==経歴==
生の子として生まれた。隋が建国されると、儀同の位を受け、[[車騎将軍]]として宿衛をつかさどった。後に司門侍郎となった。[[煬帝]]が即位すると、候衛将軍に累進したが、事件に連座して免官された。しばらくして、検校将軍事として復活した。煬帝に従って汾陽宮におもむき、[[突厥]]の進攻が近いことを察して、[[長安]]に早急に帰還するよう求めたが、煬帝に聞き入れられなかった。まもなく煬帝は[[雁門関|雁門]]で突厥による包囲を受けた。包囲が解かれると、「子崇がおびえて、みだりに陳情し、我が兵士の心を騒がせ驚かせた。側近に置くことはできない」と、煬帝は怒った。子崇は離石郡太守として出された。
 
突厥が隋の北辺を侵し、また[[稽胡]]の劉六児が離石の郡境をおびやかしたので、子崇は出兵して鎮圧するよう上表した。煬帝はまた激怒して、子崇に長城を巡回するよう命令した。子崇は出ること100里あまり、進むことができなくなって帰還した。ときに民衆は飢饉に苦しみ、寄り集まって隋に反抗したので、子崇は前後して数千人を捕らえて斬った。[[617年]]、朔方の[[梁師都]]や馬邑の[[劉武周]]らが挙兵して乱を起こすと、離石郡の諸民族もこれに呼応した。子崇は腹心の数百人とともに孟門関から長安に帰還しようとした。[[オルドス]]の諸県はおのおの隋の長吏たちを殺して、梁師都についたので、子崇は進めなくなり、離石に引き返した。子崇の側近たちも、[[太原]]で[[李淵]]が起兵したことを聞くと、再び離石に入城することなく、離反していった。子崇は離反した者たちの父兄を斬った。数日後、[[唐]]軍が夜に離石城下にやってくると、城中の豪傑たちは呼応して城を出た。離石城は陥落し、子崇は恨みを持つ家の者に殺された。