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{{出典の明記|date=2014年11月1日 (土) 01:37 (UTC)|ソートキー=人1612年没}}
{{基礎情報 武士
|氏名=徳永 寿昌
|画像=
|画像サイズ=
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|死没=[[慶長]]17年[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]([[1612年]][[8月6日]])
|改名=
|別名=昌時<ref name="p169"/>、[[仮名 (通称)|通称]]:権之進(通称)、昌時<ref name="p169"/>、下総守、石見守、式部卿法印
|戒名=広徳院殿桂厳寿昌大居士
|墓所=[[広徳寺]]([[岐阜県]][[海津市]][[海津町]]高須の広徳寺
|官位=
|幕府=[[江戸幕府]]
|主君=[[柴田勝豊]]→[[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀次|秀次]]→秀吉→[[豊臣秀頼|秀頼]]→[[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]]
|藩=[[美濃国|美濃]][[高須藩]]主
|氏族=[[徳永氏]](藤原氏庶流<ref name="syutuzi"/>)
|父母=父:[[徳永昌利]](土佐守)
|兄弟=
|妻=正室:'''三上氏'''
|子='''[[徳永昌重|昌重]]'''、[[徳永昌成|昌成]]、[[徳永昌純|昌純]]、[[徳永昌明|昌明]]、娘<br/>女([[松平康重]]継室)
|特記事項=
}}
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== 生涯 ==
[[天文 (元号)|天文]]18年([[1549年]])、[[近江国]]徳永村に徳永昌利の子として生まれた<ref name="p746">{{harvnb|堀田|1923|p=746}}</ref>{{refnest|name="syutuzi"|『寛政重修諸家譜』によれば、[[関白]][[藤原頼通|頼通]]の4代[[少納言]]家隆の子、美作守昌隆の後胤式部律師興昌が乱をさけて近江国徳永村に閑居して徳永を家号としたのが始まりという<ref name="p746"/>。}}。
美濃、尾張、近江など出身地は諸説あり、はっきりしない。
 
はじめ[[柴田勝家]]の養子の[[柴田勝豊]]に仕えた<ref name="p746"/><ref name="p169">{{harvnb|高柳|松平|1981|p=169}}</ref>柴田氏と羽柴氏が争った[[天正]]11年([[1583年]])、[[柴田氏]]と[[羽柴氏]]が争った[[賤ヶ岳の戦い]]では、直前に近江[[長浜城]]をもって勝豊が[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に下ったため、羽柴方となるが、勝豊の病気療養に従って上京していたので、いそのものには参加なかっ<ref name="p169"/>その直後に勝豊が病死したため後は、秀吉の臣となり、後に[[豊臣秀次]]付の家老として美濃国[[松ノ木城]]に3万石の所領を与えられた。秀次所領の、近江能登川の用水を整備した記録が残る。秀次の失脚事件には連座せず、むしろ秀次の罪状を並べ立てたと伝わる。秀次の処分の際には秀次の妻子を自らの屋敷に捕縛・軟禁する役割を務め<ref name="p169"/>
 
天正12年([[1584年]])、[[小牧の戦い]]では、秀吉の美濃尾張進撃に従軍した<ref name="p169"/>。
[[慶長]]3年(1598年)、秀吉の死後に[[文禄・慶長の役]]の幕引きをはかる[[五大老]]の[[徳川家康]]の命令で、[[宮城豊盛]]や徳川家臣の[[山本重成]]とともに朝鮮に在陣していた日本軍へ撤兵を伝える使者を務めた。
 
時期ははっきりしないが、後に[[豊臣秀次]]の附家老となり、[[尾張国]][[丹羽郡]]と[[美濃国]]松木島の内に2万石を与えられ、[[松ノ木城|美濃高松城]](松ノ木城)主となった<ref name="p169"/><ref name="p746"/>。ついで美濃で1万石を加増され、併せて3万石の知行となった<ref name="p169"/><ref name="p746"/>。
慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では東軍に与し、西軍に属した隣城[[高須城]]1万石の城主[[高木盛兼]]を謀略を使ってこれを落とし、また本戦終了後に[[駒野城]]に篭城した[[池田秀氏]]を降伏させた。戦後、徳川家臣の[[本多正信]]や[[大久保忠隣]]らとともに、関ヶ原の戦いで奮戦した諸大名の戦功を調べる役目を務めた。これらの戦功により高須にて2万石を加増され、高須藩初代藩主となった。
 
{{要出典範囲|date=2018年11月|秀次所領の、近江能登川の用水を整備した記録が残る}}。
慶長17年(1612年)7月10日、64歳で死去し、跡を長男の[[徳永昌重|昌重]]が継いだ。
 
[[文禄]]2年([[1593年]])8月25日、秀吉の命令で、朝鮮慶尚道金海に赴いて[[鍋島直茂]]の在陣の労をねぎらった<ref>史料綜覧11編913冊29頁</ref>。
 
文禄4年([[1595年]])4月12日、秀次が寿昌の京都の邸宅を泊まった<ref>史料綜覧11編913冊84頁</ref>。
 
7月、[[#豊臣秀次#切腹事件|秀次切腹事件]]には連座せず、{{要出典範囲|date=2018年11月|むしろ秀次の罪状を並べ立てたと伝わる}}。
 
『太閤記』によれば、秀次の処刑後、[[丹波国|丹波]][[亀山城]]に軟禁されていた秀次の妻子は、7月29日、(前述の同じ)寿昌の京都の邸宅に移され、8月2日、処刑場に運ばれた<ref>史料綜覧11編913冊95頁</ref>。その後、寿昌は再び秀吉に直仕した<ref name="p169"/>。
 
[[慶長]]3年([[1598年]])8月18日に秀吉が亡くなると、25日、[[五大老]]の[[徳川家康]]と[[前田利家]]は秀吉の喪を秘密にして寿昌と[[宮城豊盛]]を朝鮮に派遣し、[[文禄・慶長の役|慶長の役]]のために在陣していた日本軍諸将と協議して、明と講和させて無事に全軍と撤収した<ref>史料綜覧11編913冊171頁</ref><ref name="p169"/>{{sfn|堀田|1923|pp=746-747}}{{refnest|『寛政重修諸家譜』では、朝鮮行きは[[五奉行]]等の命令であり、秀吉の遺命であると言い含められが、寿昌はそのような大命が全うできるか困惑し、家康に上奏してその指示を仰ぎ、家康の指示で現地に詳しい宮城豊盛を連れて行ったとしている{{sfn|堀田|1923|pp=746-747}}。}}。帰朝後、秀吉の遺物吉光の刀を受領した<ref name="p169"/>。
 
慶長4年([[1599年]])、家康が伏見[[向島城]]に移ると、[[井伊直政]]・[[本多忠勝]]・[[榊原康政]]らと共に橋詰の番を務めた<ref name="p747">{{harvnb|堀田|1923|p=747}}</ref>。8月、直政を奏者として家康に二心無き旨を誓う誓書を出して、名代から返書を貰った<ref name="p747"/>。
 
慶長5年([[1600年]])、[[会津征伐]]に従軍<ref name="p747"/>。[[関ヶ原の戦い|関ヶ原の役]]では東軍に与したが、家康から[[金森長近|金森素玄]]と共に先に西上するように命じられ、左文字の薙刀と授かった<ref name="p747"/>。寿昌は嫡男・[[徳永昌重|昌重]]を家康のもとに残して出発したが、[[武蔵国]]厚木の宿で、家康の使者・[[奥平貞治]]が来て、[[石田三成]]方に大坂表の妻子人質に取られている大名は進退を心のまま自由にしていいと言われたので、恩義に感じて先手衆として忠誠を誓う旨の誓書を出し、さらに次男・[[徳永昌成|昌成]]を領国より呼び寄せて、[[三河国]][[吉田城 (三河国)|吉田城]]の[[池田輝政]]に人質として預けた<ref name="p747"/>。8月17日、美濃国で東軍に属した[[今尾城]]の[[市橋長勝]]・[[赤目城]]の[[横井時泰]]と共に、西軍に属した[[丸毛兼利]]の拠る[[福束城]]を攻略し<ref name="p169"/>、兼利は[[大垣城]]に逃れた<ref name="248頁">史料綜覧11編913冊248頁</ref>。19日、さらに西軍・[[高木盛兼]]の拠る[[高須城]](高洲城)を謀略を使って陥れ、寿昌が同城に駐屯した<ref name="248頁"/>。23日、東軍の軍監・井伊直政と本多忠勝は、寿昌・市橋長勝・横井時泰、[[高木貞友]]<ref>駒野城主[[高木貞久]]の五男。</ref>等を、美濃[[多芸郡]]駒野城に拠る西軍・[[池田秀氏]](高祐)の攻撃に向かわせた<ref>史料綜覧11編913冊251頁</ref>。秀氏は籠城したが、寿昌は包囲して本戦終了後の9月16日に降伏させた<ref>史料綜覧11編913冊265頁</ref>。また、[[大津城]]に籠城する東軍の[[京極高次]]のもとに、三男・[[徳永昌純|昌純]]を送って、近江国伊庭より船で鉄砲の弾薬を3度運ばせた<ref name="p747"/>。
 
戦後、徳川家臣の井伊直政や[[本多正信]]ら共に、関ヶ原の戦いで奮戦した諸大名の戦功を調べる役目を務めた<ref name="p747"/>。これらの戦功により美濃国で2万石を加増され、その後、[[尾張国]]に知行地を改めて、美濃国[[多芸郡]]・[[不破郡]]・[[石津郡]]、尾張国[[海西郡]]の4郡において併せて5万600石<!--『寛政重修諸家譜』に560石とあるが間違いであろう。-->を領した<ref name="p747"/>。この時に居城を高須城に移し、高須藩初代藩主となった。
 
慶長17年(1612年)7月10日、64歳高須で死去した。享年64。跡を長男の[[徳永昌重|昌重]]が継いだ。
 
==脚注==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|2}}
 
==参考文献==
* {{Citation |和書|last=堀田|first=正敦|editor=|year =1923| title =寛政重脩諸家譜. 第6輯|publisher =國民圖書|url={{NDLDC|1082716/382}} 国立国会図書館デジタルコレクション|chapter=|pages=746-747}}
* {{Citation |和書|last1=高柳|first1=光寿|author1-link=高柳光寿|last2=松平|first2=年一|year=1981|title =戦国人名辞典|publisher=吉川弘文館|page=169}}
{{美濃高松藩主|1583年 - 1600年}}
{{高須藩主|徳永氏|初代|1600年 - 1612年}}
 
{{DEFAULTSORT:とくなか なかまさ}}
[[Category:徳永氏|なかまさ]]
[[Category:戦国武将]]
[[Category:織豊政権の大名]]
[[Category:文禄・慶長の役の人物]]
[[Category:外様大名]]
[[Category:高須藩主]]