「マチュ・ピチュ」の版間の差分

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[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[探検家]][[ハイラム・ビンガム]]は、[[1911年]][[7月24日]]にこの地域の古いインカ時代の道路を探検していた時、山の上に遺跡を発見した。
 
ビンガムは[[1915年]]までに3回の発掘を行った。彼はマチュ・ピチュについて一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになった。この本は『[[ナショナルジオグラフィック (雑誌)|ナショナル・ジオグラフィック]]』[[1913年]]4月号ですべてをマチュ・ピチュ特集にしたことで有名になった。また[[1930年]]の著書『マチュ・ピチュ:インカの要塞』は廃墟の写真と地図が記載され説得力のある決定的な論文となった。以後、太陽を崇める神官たちが統治したとか、あるいは太陽処女たちが生贄にされたといった定説が形成された。
 
マチュ・ピチュとは間違えて付けられたといわれている説がある。遺跡に名前は決まっておらず、ビンガムが地元民に遺跡の名前を尋ねたところ、地元民は今立っている山の名前を聞かれたと思ってマチュ・ピチュと答えたことで遺跡の名前がマチュ・ピチュであると間違って伝わった、という説である。