「桜花 (航空機)」の版間の差分

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1945年3月17日、[[米内光政]]海軍大臣の内令兵第八号をもって、桜花11型は正式に兵器として採用された<ref>戦史叢書88海軍軍戦備(2)開戦以後186頁</ref><ref>[[#内令(軍極秘)昭和20年3月]]p.39『内令兵第八號(軍極秘) 試作櫻花ヲ兵器ニ採用シ櫻花(オウクワ)一一型ト呼稱ス 昭和二十年三月十七日 海軍大臣』</ref>。
 
桜花の初陣は、1945年3月[[九州沖航空戦]]であった。3月21日までに、通常攻撃と特攻により、[[第58任務部隊]]にかなりの損害を与えていると判断していた第5航空艦隊は{{#tag:ref|実際に空母フランクリンとワスプを大破させ、イントレピッドやエンタープライズやエセックスにも損傷を与えていた。|group="注釈"}}、偵察機が発見した機動部隊に直掩機が見られなかった事より、損傷艦と誤認しトドメをさす好機到来と判断し、桜花部隊の出動を決めた。
桜花の初陣は、1945年3月[[九州沖航空戦]]であった。
3月21日までに、通常攻撃と特攻により、[[第58任務部隊]]にかなりの損害を与えていると判断していた第5航空艦隊は{{#tag:ref|実際に空母フランクリンとワスプを大破させ、イントレピッドやエンタープライズやエセックスにも損傷を与えていた。|group="注釈"}}、偵察機が発見した機動部隊に直掩機が見られなかった事より、損傷艦と誤認しトドメをさす好機到来と判断し、桜花部隊の出動を決めた。
 
しかし、3月18日には164機もあった五航艦の戦闘機も、3日に渡る九州沖航空戦の激戦で損失や損傷や故障が相次ぎ、桜花部隊の護衛の戦闘機は神雷部隊で32機、203空からの応援が23機で合計55機しか準備できなかった<ref>山岡荘八『小説 太平洋戦争(5)』講談社 P.283</ref>。それを知った神雷部隊司令[[岡村基春]]大佐は、援護の戦闘機が少ないことと目標が遠距離であることから中止を五航艦司令部に上申した。五航艦長官[[宇垣纏]]中将は「今の状況で使わなければ使うときがないよ」と言って断行した。当時得られた情報では計画通りの目標であったためである<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』p201 - 202</ref>。
 
桜花出撃中止を宇垣中将に上申したのは岡村大佐ではなく、五航艦参謀長[[横井俊之]]大佐であったという証言もある。横井大佐は[[第一航空戦隊|第1航空戦隊]]参謀や[[横浜海軍航空隊]]司令などを歴任した海軍航空の専門家で、[[マリアナ沖海戦]]では空母[[飛鷹 (空母)|飛鷹]][[艦長]]として参加し、アメリカ軍の防空能力を熟知していた<ref>木俣滋郎『桜花特攻隊』光人社NF文庫 P.100</ref>。出撃の命令が出た後に、横井参謀長より護衛機が55機と聞かされた岡村司令が「参謀長、もっと戦闘機を出せませんか?」と食って掛かると<ref>中島正 猪口力平『神風特別攻撃隊の記録』P.144</ref>、作戦の困難さを十分理解していた横井参謀長は「岡村大佐が55機で不安であれば、出撃を中止せざるを得ないと思われます。」と宇垣中将に出撃中止を進言したが、宇垣中将は岡村大佐の肩に手を置くと、諭すように一語一句ゆっくりとした口調で「この状況下で、もしも、使えないものならば、桜花は使う時がない、と思うが、どうかね」と言い、岡村大佐は「ハッ、やります」と決然と云って挙手をすると、サッと作戦室を後にしたという<ref>山岡荘八『小説 太平洋戦争(5)』講談社 P.286</ref>。岡村大佐はこの出撃を待ち受けてる悲惨な状況に、危険性が高い任務には指揮官が先頭に立たねばならないと考え、[[野中五郎]]少佐に「今日は俺が行く」と言ったが<ref>デニス・ウォーナー『ドキュメント神風下巻』時事通信社 P.6</ref>、野中少佐は「お断りします。司令、そんなに私が信用できませんか!今日だけはいくら司令のお言葉でも、ごめんこうむります」と言葉を荒らげて拒否している<ref name="nakajima_inoguchi_145">中島正 猪口力平『神風特別攻撃隊の記録』P.145</ref><ref>菅原完『知られざる太平洋戦争秘話』P.223</ref>。野中少佐の人柄より{{#tag:ref|五航艦付[[中島正]]少佐によれば「猛虎のような男」<ref name="nakajima_inoguchi_145"/>。|group="注釈"}}、一度言った事は絶対に撤回しないと岡村大佐は熟知していた為、そのまま出撃は野中少佐に譲ったが、後年に、この時を回顧する度に岡村大佐の目は涙でいっぱいだったという<ref>山岡荘八『小説 太平洋戦争(5)』講談社 P.290</ref>。
[[ファイル:Mitsubishi G4M2e with Okha under attack 1945.jpeg|thumb|250px|アメリカ軍戦闘機のガンカメラで撮影された、神雷桜花部隊野中隊の一式陸攻]]
その後、野中少佐は飛行場の陸攻指揮所に行く途中、飛行長[[岩城邦広]]少佐に「ろくに戦闘機の無い状況ではまず成功しない。特攻なんてぶっ潰してくれ。これは[[湊川の戦い|湊川]]の戦いだよ」と言った<ref>『海軍神雷部隊』戦友会編p18、加藤浩『神雷部隊始末記』p202</ref>。
一方で、自ら「野中一家」と名乗り見事に統率してきた隊員らに対して「野郎ども集まれ」と呼集をかけると<ref>木俣滋郎『桜花特攻隊』光人社NF文庫 P.110</ref>「ただいまより敵機動部隊撃滅に向かう(中略)ただいま以降、攻撃開始までは無線中止とする。どんな弱い電波も出しちゃならねえ。(中略)待ちに待った時がきたのである。日頃鍛えに鍛えた訓練の成果を示す時が来たのである。戦わんかな最後の血の一滴まで国に捧げる時が来たのである。諸士の健闘を望む。」と普段の[[江戸言葉|べらんめえ口調]]を交えながら訓示を行って士気を鼓舞している<ref>『海軍神雷部隊』戦友会編p18</ref><ref>加藤浩『神雷部隊始末記』P.204</ref>。「野中一家」の通例であった勇壮な陣太鼓が打ち鳴らされる中で、部下の若い搭乗員らも野少佐の意気に応えるように、出撃時には「行って来まアす」と大声を出し、遠足に出ていく子供の様に笑顔で手を大きく振りながら出撃して行ったと、当時報道班員として神雷部隊の取材をしていた作家[[山岡荘八]]が述べている{{#tag:ref|山岡荘八は鹿屋基地近くに立つ2軒の平屋の内の1軒に他の報道班員と滞在、神雷部隊隊員と寝食を共にし2ヶ月に渡って取材をしている。もう1軒の平屋は神雷部隊司令岡村大佐の宿舎であった。|group="注釈"}}<ref>山岡荘八『小説 太平洋戦争(5)』講談社 P.291</ref>。
 
1945年[[3月21日]]、神雷部隊は第一回神雷桜花特別攻撃隊(第一神風桜花特別攻撃隊神雷部隊)を編成、沖縄を攻撃中の米機動部隊に向けて出撃させた<ref>『海軍神雷部隊』戦友会編p17</ref>{{#tag:ref|[[野中五郎]]少佐指揮による[[一式陸攻]]18機(うち隊長機3機は桜花未搭載)、桜花15機、護衛の[[零式艦上戦闘機|零戦]]55機の編成。|group="注釈"}}。
 
空戦の結果、陸攻隊は18機全機撃墜され全滅、零戦隊は30機中10機が未帰還という結果に終わった。桜花隊は[[三橋謙太郎]]大尉ほか14名が未帰還となった。18機の母機が全機撃墜されるのにかかった時間はわずか20分程度であった。この戦いで後ろを取られ、必死で機体を左右に滑らせて射線をかわすも、ついに被弾して火を噴き爆発、桜花を吊ったまま墜落する一式陸攻の姿を記録したF6Fのガンカメラ映像が残っている。
この戦闘で、攻撃711飛行隊:攻撃隊指揮官 [[野中五郎]]少佐ほか134名、戦闘306飛行隊:[[伊澤勇一]]大尉ほか6名、戦闘307飛行隊:[[漆山睦夫]]大尉ほか2名、も未帰還となった。出撃命令がなかったレーダー搭載型一式陸攻の電探員によれば、桜花1機が整備ミスで出撃できず、離陸直後に零戦2機が空中衝突したと言う。第一神雷部隊の陸攻隊は離陸後、攻撃隊内では意図をもって連絡を取っていた<ref>加藤浩『神雷部隊始末記』p209</ref>が、司令部には一本の電報もなく、司令部は帰還した戦闘機隊から直接報告を聞いて戦況を把握した。
 
第七ニ一海軍航空隊の[[戦闘詳報]]には「神雷攻撃の戦機の得ざりしこと並びに直掩戦闘機の出動率僅少なりしことが、この作戦を不成功ならしめたる原因にして、次回作戦に対し大いに研究の余地あり」「第一回神雷攻撃を敢行し、桜花機の使用の限界を判明とし、その後の作戦に資する所、極めて大なり」と記されていた<ref name="世界113">内藤初穂「太平洋戦争における旧海軍の「戦闘詳報」」『世界の艦船 No.512』1996年7月号 113頁</ref>出撃を強行した宇垣中将は陣中日記[[戦藻録]]に「其の内援護戦闘機の一部帰着し悲痛なる報告を致せり。即1420頃敵艦隊との推定距離5、60浬に於いて敵グラマン約50機の邀撃を受け空戦、撃墜数機なりしも我も離散し陸攻は桜花を捨て僅々10数分にて全滅の悲運に會せりと。嗚呼」と記している<ref>宇垣纏『戦藻録 後編』日本出版協同 P.197</ref>。
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