「新見錦」の版間の差分

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永倉の『新選組顛末記』によると、[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]、遊蕩先の祇園新地の料亭「山緒」に近藤一派が押しかけ、悪行の数々を突きつけられた上で「切腹せねば法度に照らして[[斬首]]する」と詰め寄ったため、切腹させられたという。間もなく芹沢と[[平山五郎]]も試衛館派に暗殺され、新選組の水戸派は壊滅した。しかし、永倉は『浪士文久報国記事』においては、一同相談のうえ切腹と決まったが、その内にまたも[[木屋町 (曖昧さ回避)|四条木屋町]]に旅宿する水戸浪人吉成常郎([[吉成勇太郎]]の弟[[吉成恒次郎|恒次郎]]と推定されている)に乱暴を働いたため、[[8月14日 (旧暦)|8月14日]]もしくは[[8月15日 (旧暦)|15日]]に梅津某の介錯で切腹させられたとしており、どちらが正しいのかは分かっていない。
 
[[明治時代|明治]]に長州派の志士を祀るため作られた[[京都霊山護国神社|霊山招魂社]]に、敵であるはずの新見が祀られていること、元新選組の[[暮地義信]]が維新時に活躍した志士を記した『近世高名一覧勤王為皇国』に名前がある事などから、切腹の理由は素行不良や試衛館派との対立だけではなく、水戸や[[長州藩|長州]]、[[土佐藩|土佐]]などの尊王攘夷派との親密な関係を咎められたという説もある。
 
== 異説 ==