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文禄5年/[[慶長]]元年([[1596年]])12月、5歳の拾は、秀頼と名付けられた。
 
翌慶長2年([[1597年]])4月(2月より工事)、秀吉は京都大内裏跡に秀頼の朝廷参内のためにわざわざ[[京都新城|聚楽屋敷秀頼卿御城(京都新城)]]を築かせ{{efn|秀次の聚楽第は、秀吉の命令で破却された。}}、これが完成したので、9月26日に秀頼は伏見城から新へと移った。翌27日、参内した秀頼は[[元服]]して[[従四位|従四位下]][[近衛府|左近衛少将]]に叙任され、29日には同じく左近衛中将に昇進した。豊臣家世嗣としての立場はこうして完全に強固なものなり、同時に生母の立場も盤石となる。
 
慶長3年([[1598年]])3月15日、秀吉は[[醍醐寺]][[三宝院]]で観桜の宴を盛大に開いた。醍醐寺の外では院外の五十町四方に、三町に一所ずつ、番所を立て、弓鉄砲で武装した者を置き、警護を固めさせた。こうした醍醐周辺の姿はまさに「醍醐惣構」と呼ぶに相応しいもので、このものものしい惣構の中に輿に乗って、女房衆が入ってきた{{sfn|田端|2003|p=(18)}}。淀殿の[[輿]]の警護には[[木下延重|木下周防守]]と[[石川頼明|石川掃部]]が随従した。所謂、この[[醍醐の花見]]では、従姉妹にあたる松の丸殿(京極竜子)と杯の順番を巡って争うという事件があった{{efn|『陳善録』による。これは前田利家の御伽衆[[村井重頼]]が直接見聞きしたことを記したもので、かなり信頼性が高い史料である{{sfn|桑田|1985|pp=103-107}}。}}{{efn|田端泰子はこの事件は妾同士の対立というよりは、浅井家と京極家という対立であり、女性はいつまでも生家を背負っていたことを感得する出来事と分析している{{sfn|田端|2003|p=(18)}}。}}。妻妾の二番手の西の丸殿(淀殿)と、三番手の松の丸殿とは、親戚でありながら因縁があり、松の丸殿の方が(浅井氏の)主筋の京極氏の人であり、家中随一の美貌と秀吉の寵愛とを誇っていた。2人は伏見城の西の丸と松の丸に住んでおり、この頃、少し啀み合っていたようだ{{efn|後述するように、大津城の戦いの際には、淀殿は松の丸殿の命を救っているので、些細な喧嘩にすぎなかったようである。}}。2人を仲裁したが、北政所と[[前田利家]]の妻である[[芳春院]]{{efn|秀吉の妻妾の五番手である[[摩阿姫|加賀殿]]は前田利家の側室の娘である。}}であった{{sfn|桑田|1979|pp=296-298}}。醍醐寺の寺内では、趣向を凝らした茶屋が[[増田長盛]]、[[長束正家]]などによって設けられ、秀頼から三宝院へ銀子二百枚、小袖十重、北政所からは鳥目百貫文、精糸二十疋が送られ、他の側室たちからの贈り物もおびただしかった。秀吉は三宝院に対して新知行地として1,600石(日野三ヵ村、勧修寺村、笠取村、小野村)を与えている{{sfn|田端|2003|p=(18)}}。{{see also|醍醐の花見}}