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== 生涯 ==
[[後醍醐天皇]]の[[建武の新政]]から離反した[[足利尊氏]]が[[湊川の戦い]]で宮方に勝利し、延元元年(1336年)に京都に入ると後醍醐天皇は比叡山[[延暦寺]]に逃走する。後醍醐天皇の代わりに[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]に豊仁が[[三種の神器]]の無い状況で[[光厳天皇|光厳上皇]]の[[院宣]]により即位して光明天皇となり、北朝が成立する。三種の神器がない状況での即位は[[後鳥羽天皇]]が[[後白河天皇|後白河法皇]]の院宣により即位した先例に従ったものであり、この時代は三種の神器が皇位継承の絶対条件ではなかったのである。兄の光厳上皇による[[院政]]が行われた。
 
後醍醐天皇は[[恒良親王]]に三種の神器を渡し皇位を譲った上で、足利尊氏と和解し京都に戻った。そこでもう一組の三種の神器を北朝に譲り渡した。この時点で光明天皇の「神器なしの即位」という点はクリアされた。が、後醍醐天皇は[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]に[[吉野]]に逃れて南朝を設立して南北朝が成立する。この時、後醍醐天皇は北朝に渡した三種の神器は偽物であると称した(この段階で三種の神器が3組も存在したことになるが、状況的にこの時の吉野潜行に三種の神器を帯同していく猶予はなかったと考えられ、実際に後の[[観応の擾乱#正平一統|正平の一統]]で[[後村上天皇]]は北朝の神器を奪還している)。また、北陸においてもう一人の天皇として在位していた恒良親王は延元3年4月13日([[1338年]]5月3日)に薨去(崩御?)したのでこの段階までは三人の天皇が並立していたともいえる。もし当時の人々にとって恒良親王の所持していた三種の神器が本物と考えられていたとしたら、[[壇ノ浦の戦い]]において[[源義経]]が三種の神器の確保を厳命されていたように、何かしら言及された史料がありそうだがそのような記述は歴史書にみられず、恒良親王の神器は親王の捕縛に伴って北朝軍の司令官[[斯波高経]]の手を経由して光明天皇に渡ったのか、[[金ヶ崎城]]の落城とともにどこかで消失したのか等、行方が不詳である。