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{{基礎情報 武士
'''宮城 豊盛'''(みやぎ とよもり、[[天文 (元号)|天文]]23年([[1554年]]) - [[元和 (日本)|元和]]6年([[1620年]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]。[[豊臣氏]]の家臣。本姓は[[大江氏]]。宮木とも。通称、長次郎または長次。官位は従五位下丹波守。法名は宗広。使用家紋は蝶紋の「揚羽蝶」が『[[寛政重修諸家譜]]』に載る。
| 氏名 = 宮城豊盛
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]初期
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]24年([[1555年]])
| 死没 = [[元和 (日本)|元和]]6年[[5月29日 (旧暦)|5月29日]]([[1620年]][[6月29日]])
| 改名 = 宮城定勝(長次{{refnest|子孫[[宮城和中]]の系図に長次に名を改めたとある{{sfn|堀田|1923|p=324}}。}})→豊臣定勝→宮城豊盛
| 別名 = 宮木豊盛{{refnest|姓は「宮木」とするものもあり{{sfn|桑田|1971|p=103}}、古文書にも宮木長次郎との署名が多いが、『寛政重修諸家譜』では家祖が陸奥国宮城の住人であったことが姓の由来としている{{sfn|堀田|1923|p=317}}ので、略字か。}}、宮木長次、[[仮名 (通称)|通称]]:長次郎、丹波守、法名:宗広(宗九)
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 = 金勝山[[阿弥陀寺 (栗東市)|阿弥陀寺]]([[滋賀県]][[栗東市]]東坂)
| 官位 = [[従五位|従五位下]][[丹波国|丹波守]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[豊臣秀吉]]→[[豊臣秀頼|秀頼]]→[[徳川家康]]→[[徳川秀忠|秀忠]]
| 藩 = 旗本
| 氏族 = [[宮城氏]]([[大江氏|大江姓]])
| 父母 = 義父:[[宮城堅甫]](宗賦)
| 兄弟 = ''[[宮城正重|正重]]''、''[[宮城文利|文利]](宗凊)''、''女''([[松本長甫]]室)、''女''([[鯰江貞勝]]室)、''女''([[三上士秀]]室)、''女''(宮城豊盛室)
| 妻 = '''宮城堅甫の娘'''
| 子 = 女(宮城頼久室)、''[[宮城頼久|頼久]]''<ref>[[山崎片家]]の子。豊盛の婿養子。</ref>
| 特記事項 =
}}
'''宮城 豊盛'''(みやぎ とよもり)は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]、[[大名]]。[[江戸時代]]初期の[[旗本]]。[[豊臣氏|豊臣家]]の譜代家臣。[[徳川秀忠]]の[[御伽衆]]。初名は'''定勝'''(さだかつ)で{{sfn|高柳|松平|1981|p=244}}、[[慶長]]元年([[1596年]])に豊臣姓を与えられた時も、定勝を名乗っていた{{sfn|高柳|松平|1981|p=244}}。
 
== 生涯 ==
[[近江国]]の人。[[織田信長]]の家臣・[[宮城堅甫]]の一族で、その娘を娶って婿養子となった{{sfn|堀田|1923|p=318}}。堅甫は後に[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に仕え、豊盛も秀吉に仕えて譜代の家臣となった{{sfn|桑田|1971|p=103}}。
天文23年(1554年)、誕生。[[六角氏]]の家臣・[[宮城賢甫|宮城賢甫(堅甫)]]の娘婿にあたる。[[山崎片家]]の子・[[宮城頼久|頼久]]を養子とした。妹に[[鯰江貞勝]]室。
 
[[天正]]13年([[1585年]])3月19日、[[山城国|山城]]・近江の百姓が[[検地]]のため逃散したので、秀吉は[[片桐貞隆]]・豊盛・[[毛利勝信|森吉成]]らに命じて、百姓を還住させるために、未進の年貢を猶予すると周知させた<ref>大日本史料11編14冊74頁。</ref>。
[[豊臣秀吉]]に仕え、[[三木合戦]]で功を挙げ、[[小田原征伐]]や[[文禄・慶長の役]]に参陣する。京の[[金戒光明寺]]再建の奉行を務める。[[文禄]]元年([[1592年]])に[[豊後国]][[日田市|日田郡]]に蔵入地の代官として赴任し、[[日隈城]]を築城した。文禄3年([[1594年]])の時点で豊後日田・[[玖珠郡|玖珠]]2万石(4万石とも)の蔵入地代官を務めた。
 
同年7月2日、[[四国攻め#羽柴秀吉の四国攻め(四国の役)|四国の役]]の[[阿波国]]での戦況を豊盛が報告したのを受けて、秀吉は翌3日に出陣すると決定する<ref>大日本史料11編26冊補遺500頁および11編16冊307頁。</ref>が、[[豊臣秀長]]の諫止により中止となった。29日、秀吉の命令で、阿波[[一宮城]]・[[脇城]]の攻囲軍に米を輸送した<ref>大日本史料11編27冊補遺500頁、11編26冊補遺544頁、11編17冊421頁。</ref>。
[[慶長]]3年([[1598年]])、慶長の役の最中に秀吉が死去すると、[[徳川家康]]より命を受け、[[徳永寿昌]]・[[山本重成]]とともに[[朝鮮]]へ渡海し将兵の撤兵を指導した。その功により慶長4年([[1599年]])、従五位下丹波守に任官する。
 
天正14年([[1586年]])8月3日、秀吉は[[黒田孝高]]・豊盛(宮城堅甫{{sfn|高柳|松平|1981|p=244}})を九州に出張させて、[[大友宗麟|大友宗滴]]・[[大友義統|義統]]父子及び[[立花宗茂|立花統虎]]らに、[[豊前国|豊前]]に出陣することを告げ、それまで守備を固めるように命じた<ref>史料綜覧11編912冊133頁。</ref>。
慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では、西軍として[[大坂城]]平野橋を警護したため、戦後所領を没収されるが、養子・頼久とともに[[徳川氏]]に仕えた。頼久は慶長10年([[1605年]])、実兄の[[山崎家盛]]より[[但馬国]]二方郡6000余石を分知され上級旗本となったが、慶長14年([[1609年]])に死去したため、豊盛が幼年の当主・十二郎(頼久の子。のちの[[宮城豊嗣]])の後見として[[大坂の陣]]に出陣するなど実質的な当主として活躍した。
 
[[文禄]]2年([[1593年]])頃、『駒井日記』によると[[豊後国]]の内のいずれかに所領を与えられた{{sfn|高柳|松平|1981|p=244}}。文禄3年([[1594年]])、[[日隈城]](隈城)を築城。この頃、豊後国[[日田市|日田郡]]に[[蔵入地|太閤蔵入地]]の[[代官]]であった{{sfn|高柳|松平|1981|p=244}}。
その後、駿府の徳川家康に仕え、家康死後は[[徳川秀忠]]の[[御伽衆]]となった。元和元年([[1614年]])、[[慈照寺]](銀閣寺)再建の奉行や、元和5年([[1619年]])[[京都]][[知恩院]]の普請奉行を務めている。
 
慶長元年(1596年)5月11日、豊臣姓を授かり、従五位下丹波守に叙任され、豊臣定勝を名乗る{{sfn|高柳|松平|1981|p=244}}{{refnest|『寛政重修諸家譜』に慶長4年4月16日とあるのは誤り{{sfn|高柳|松平|1981|p=244}}。}}。慶長2年頃に知行5,000石{{sfn|高柳|松平|1981|p=244}}。
元和6年(1620年)、京都にて67歳で死去。墓所は近江国今勝谷の阿弥陀寺。
 
慶長3年([[1598年]])8月18日、[[文禄・慶長の役|慶長の役]]の最中に秀吉が亡くなると、25日、[[五大老]]の[[徳川家康]]と[[前田利家]]は秀吉の喪を秘密にして軍撤収使として[[徳永寿昌]]と豊盛を[[朝鮮]]に派遣した{{sfn|堀田|1923|p=324}}<ref name="si"/>。これら代官は日本軍諸将と協議して、明と講和し、無事に全軍と撤収した<ref name="si">史料綜覧11編913冊171頁</ref>{{refnest|『寛政重修諸家譜』の徳永寿昌の項に、朝鮮行きは[[五奉行]]等の命令であり、秀吉の遺命であると言い含められが、寿昌はそのような大命が全うできるか困惑し、家康に上奏してその指示を仰ぎ、家康の指示で現地に詳しい宮城豊盛を連れて行ったとしている<ref>{{Citation |和書|last=堀田|first=正敦|editor=|year =1923| title =寛政重脩諸家譜. 第6輯|publisher =國民圖書|url={{NDLDC|1082716/382}} 国立国会図書館デジタルコレクション|chapter=|pages=746-747}}</ref>。}}。帰朝後、秀吉の遺物国吉の刀を受領した{{sfn|高柳|松平|1981|p=244}}。この年か翌年に、摂津国と豊後国の内で併せて1万石に加増された{{sfn|高柳|松平|1981|p=244}}。
== 外部リンク ==
 
*[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/oe_miyagi.html 武家家伝_宮城氏]
慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い|関ヶ原の役]]では西軍に与して[[大坂城]]平野橋を警護したが、7月23日に会津征伐出向中の[[徳川家康]]に[[山崎家盛]](婿養子・[[宮城頼久|頼久]]の実兄)と共に[[石田三成]]の挙兵を通報する<ref>史料綜覧11編913冊236頁。</ref>{{sfn|堀田|1923|p=324}}などして、東軍にも内通していた。このため戦後に所領を半減されて5,000石となるが、改易はされなかった{{sfn|高柳|松平|1981|p=244}}。
 
慶長10年([[1605年]])、[[豊臣秀頼]]の命で、京の[[金戒光明寺]]阿弥陀堂の再建の普請奉行を務めた。
 
慶長14年([[1609年]])に婿養子・頼久が先だって死去したため、豊盛が孫の十二郎([[宮城豊嗣]])の後見となり、二人して[[駿府]]の家康のもとに伺候し、以後は徳川家に仕えた。11月、豊盛の妻と娘を駿府に住まわせる{{sfn|堀田|1923|p=324}}。
 
慶長19年([[1614年]])、[[大坂の陣|大坂冬の陣]]に孫に代わって出征し、備前島の備に入った。11月24日、大坂城からの鉄砲で鼻から頬にかけて負傷し、[[徳川秀忠]]は[[朝比奈正重]]を下して傷の様子を尋ねさせている{{sfn|堀田|1923|pp=324-325}}。翌年の夏の陣にも従軍し、玉造口に配置された。
 
[[元和]]元年([[1615年]])、[[慈照寺]](銀閣寺)再建の普請奉行を務め、家康の没後は秀忠の[[御伽衆]]とされた。
 
元和5年([[1619年]])、[[京都]][[知恩院]]の山門および経蔵の普請奉行を務めて京都に滞在。翌元和6年(1620年)に同地で死去した。享年67歳。墓所は近江国{{ruby|金勝谷|こんぜだに}}の阿弥陀寺。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{reflist|3}}
 
== 参考文献 ==
* {{Citation |和書|last1=高柳|first1=光寿|author1-link=高柳光寿|last2=松平|first2=年一|year =1981|title =戦国人名辞典|publisher=吉川弘文館|page=244}}
*{{Citation |和書| last =桑田|first=忠親 |author-link=桑田忠親| year =1971|title =太閤家臣団|publisher =新人物往来社|page=103}}{{ASIN|B000J9GTRU}}
* {{Citation |和書|last=堀田|first=正敦|editor=|year =1923| title =寛政重脩諸家譜. 第4輯|publisher =國民圖書|url={{NDLDC|1082713/171}} 国立国会図書館デジタルコレクション|chapter=|pages=318, 324-325}}
 
{{DEFAULTSORT:みやき とよもり}}
[[Category:近江国の人物]]
[[Category:戦国武将]]
[[Category:1554年生織豊政権の大名]]
[[Category:文禄・慶長の役の人物]]
[[Category:1555年生]]
[[Category:1620年没]]