「松浦家 (安大夫)」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
'''松浦 宗清'''(まつうら むねきよ、? - [[寛永]]5年([[1628年]])?)は、[[安土桃山時代]]の武将・大名。本姓寺田氏。[[寺田知正]]の子。[[仮名 (通称)|通称]]、安大夫。別名に定一とも。兄に[[寺田正家]]。[[松浦久信 (伊勢国井生城主)|松浦久信]]の従兄弟。
| 氏名 = 松浦宗清 / 松浦安大夫
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[安土桃山時代]]
| 生誕 = 生年不詳
| 死没 = 没年不詳
| 改名 =
| 別名 = 定一、清長{{sfn|谷口|1995|p=408}}、寺田安大夫<br/>[[仮名 (通称)|通称]]:安大夫(安太夫)
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 =
| 幕府 =
| 主君 = [[松浦信輝|松浦肥前守]]→[[織田信長]]→[[佐久間信盛]]([[蜂屋頼隆]])→[[豊臣秀吉]]→[[中村一氏]]→秀吉
| 藩 =
| 氏族 = 寺田氏→[[松浦氏#和泉松浦氏|和泉松浦氏]]
| 父母 = 父:[[寺田知正]]
| 兄弟 = [[寺田生家|寺田又右衛門]]({{ruby|生家|なりいえ}})、'''宗清'''
| 妻 =
| 子 =
| 特記事項 =
}}
'''松浦 宗清'''(まつうら むねきよ、? - [[寛永]]5年([[1628年]])?)は、[[安土桃山時代]]の[[武将・大名。本姓寺田氏。]]、[[寺田知正大名]]の子。[[仮名 (通称)|通称]]は安大夫(やすだゆう)で'''松浦安大夫'''の称でも知られる別名[[諱]]は他'''定一'''(さだいち)、'''清長'''(きよなが)とも。兄に[[寺田正家]]伝わる{{sfn|谷口|1995|p=408}}。[[松浦久信 (伊勢国井生城主)|松浦久信秀任]]従兄弟。
 
== 経歴 ==
[[和泉国]][[和泉郡]]寺田村の[[国人]]・寺田知正の次男として生まれる。はじめの名は寺田宗清。和泉[[守護代]]・[[岸和田城]]主の松浦肥前守に仕えた。[[天正]]に入り松浦氏は没落し、天正3年([[1575年]])に兄の正家とともに岸和田城主となる。そして兄と共に松浦へ改姓して松浦宗清と名乗り、[[織田信長]]に仕える。城主になった経緯は、松浦肥前守に対する[[下克上]]ともいわれる。のちに[[豊臣秀吉]]に仕え、[[馬廻]]から岸和田の代官となる(『岸和田藩志』)。天正12年([[1584年]])[[小牧・長久手の戦い]]に功があり、翌年に[[伊勢国]]井生(いう)川口に移封され、のちに加増され1万石(『勢陽雑記』)となった。天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]では、[[石田三成]]指揮の下で[[忍城の戦い|忍城攻め]]に参加している<ref>『佐竹義宣(よしのぶ): 秀吉が頼り、家康が怖れた北関東の義将』P121 近衛龍春著 PHP研究所</ref>。
[[和泉国]][[和泉郡]]寺田村の[[国人]]である[[寺田知正]]の次男で、[[寺田生家|寺田又右衛門]]の弟。[[堺]]に住んで、和泉[[守護代]]・[[岸和田城]]主の[[松浦信輝|松浦肥前守]](光)の配下に属していたが、肥前守が[[織田信長]]に降ったことから、信長の家臣となった{{sfn|谷口|1995|p=408}}。
 
松浦姓を称したのは、肥前守の養子になったのか、賜姓を受けただけなのか明らかではない{{sfn|谷口|1995|p=408}}。一説には、又右衛門・安大夫の兄弟が主君松浦氏を謀殺して松浦氏を名乗るようになったともいう<ref>{{Citation|和書|editor=大澤研一, 仁木宏|title=岸和田古城から城下町へ―中世・近世の岸和田|year=2008|publisher=和泉書院 |page=53|isbn=4757604815}}</ref>。
[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では西軍に属し、[[伏見城の戦い]]に豊臣家の弓頭として参加したため[[改易]]され、翌年9月に[[南部利直]]に預けられる(『篤焉家訓』)。[[寛永]]5年([[1628年]])、同地で病没したというが定かでない。
 
[[天正]]4年([[1576年]])7月9日、和泉衆の[[沼間任世]]・寺田生家・宗清が、信長により大坂付近の作毛刈取り(所謂、青田刈り)を命じられている{{sfn|谷口|1995|p=408}}。同月13日の[[第一次木津川口の戦い]]に参加して毛利勢と戦い、惨敗して味方の多くは討死するが、生家・宗清兄弟は生き延びた{{sfn|谷口|1995|p=408}}。
 
天正6年([[1578年]])8月14日、[[佐久間信盛]]より、信長出陣のために用木・船などを用意するよう生家と共に命じられており、信盛の[[与力]]とされていたようである{{sfn|谷口|1995|p=408}}。しかし同8年(1580年)8月の佐久間父子追放の後は、信長直属になったのか、岸和田城主となる[[蜂屋頼隆]]の与力になったのかは定かではない{{sfn|谷口|1995|p=408}}が、同9年(1581年)の[[京都御馬揃え|馬揃え]]では、頼隆配下の和泉衆として行進している{{sfn|谷口|1995|p=408}}。
 
天正10年([[1582年]])6月の[[本能寺の変]]以後は、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に仕え、[[馬廻]]となった{{sfn|谷口|1995|p=408}}{{sfn|高柳|松本|1981|p=236}}。
 
天正11年から13年にかけて[[中村一氏]]の与力とされ、岸和田城の守備に加わる{{sfn|谷口|1995|p=408}}。この頃、岸和田の代官であったというから、和泉に所領を持っていたようである{{sfn|高柳|松本|1981|pp=236-237}}。同12年([[1584年]])、[[小牧・長久手の戦い|小牧の役]]の際、[[黒田孝高]]らの助力を得て、中村一氏の守る岸和田城を救援し、雑賀・根来衆の攻撃を撃退した{{sfn|谷口|1995|p=408}}{{sfn|高柳|松本|1981|p=236}}。翌年に[[伊勢国]]{{ruby|井生|いう}}・川口に移封され、その後、加増され1万石となり、石弓百張を預かったという{{sfn|谷口|1995|p=408}}。
 
天正18年([[1590年]])の[[小田原征伐]]では、[[石田三成]]指揮の下で[[忍城の戦い|忍城攻め]]に参加している<ref>『佐竹義宣(よしのぶ): 秀吉が頼り、家康が怖れた北関東の義将』P121 近衛龍春著 PHP研究所</ref>。
 
[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では西軍に与して[[安濃津城の戦い]]に参加{{sfn|谷口|1995|p=408}}{{sfn|高柳|松本|1981|p=237}}。敗戦で[[改易]]されて失領。
 
翌年9月23日、[[宮部長房|宮部長煕]]・[[岸田忠氏]]・[[石川貞清]]と共に陸奥の[[南部利直]]に預けられ、その地で病死したというが、『武家閑談』では[[佐竹義宣]]に預けられ、義宣が家老を成敗したときに一緒に殺されたという違う話を載せている{{sfn|谷口|1995|p=408}}。
 
== 脚注 ==
{{Reflist脚注ヘルプ}}
{{Reflist|2}}
 
== 参考文献 ==
* {{Citation |和書| last1=高柳|first1=光寿|last2=松平|first2=年一|year =1981| title =戦国人名辞典|publisher =吉川弘文館|page=236-237|chapter=}}
*[http://www.morioka-times.com/news/2005/0506/03/05060303.htm 〈古文書を旅する〉65 工藤利悦著 盛岡藩御預かりの大名類縁者の系譜とその後(盛岡タイムス)]
* {{Citation |和書|last=谷口 |first=克広 |author2=[[高木昭作]](監修)|author-link=谷口克広 |year=1995|title=織田信長家臣人名辞典|publisher=吉川弘文館|isbn=4642027432|ref={{sfnref|谷口|1995}}|page=408|chapter=}}
 
== 関連項目 ==
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{{DEFAULTSORT:まつうら むねきよ}}
[[Category:和泉国の人物]]
[[Category:戦国武将]]
[[Category:織豊政権の大名]]
[[Category:伊勢国の人物]]
[[Category:和泉国の人物]]
[[Category:南部藩の人物]]
[[Category:岸和田市の歴史]]
[[Category:16世紀生]]
[[Category:1628年17世紀没]]