「本能寺の変」の版間の差分

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:*;{{Anchors|複数実行犯・複数黒幕存在説}}複数実行犯・複数黒幕存在説
:実行犯や主犯が光秀以外に複数いて、黒幕も複数存在するという説の総称。
 
:*;{{Anchor|石山本願寺と羽柴秀吉実行犯説}}
:作家[[咲村庵]]による本願寺兵と羽柴兵が信長父子を襲撃したとする説<ref name="s">咲村庵『明智光秀の正体』ブイツーソリューション、2017年</ref>。本能寺の変当日、[[織田信忠]]が殺害された二条御所で、公家の[[勧修寺晴豊]]は知り合いの井上という人物に会ったが、明智家には井上という家臣がいないとし、勧修寺晴豊は明智家の者との接触はないが、本願寺の者と頻繁に会っていたと指摘。そこから井上という人物は本願寺の者([[井上専正]])だろうと推測して、同じく二条御所で勧修寺晴豊は[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の家臣と見られる者([[川勝秀氏]])と行動を共にしていたことから、両者の共謀を推測した。変に先立って、[[正親町天皇]]は本願寺に勅書を送り、[[村井貞勝]]に勅使を遣わしているが、彼らに伝えられた勅命は信長討伐であると咲村は主張し、勅使の勧修寺晴豊の日記には「仔細は庵衆と小西衆と申す事なり」と書かれていることから本願寺と秀吉家臣の[[小西行長]]父子が関わるものだったと考えた。本能寺の変当日には、村井貞勝配下の死者は貞勝の弟、二人の子と外1名の計4名のみであり、京都所司代の兵は出動しなかったと推測した。また、兼見卿記別本では、信長父子を討った者らは大津を通って下向したと書かれているが、多門院日記には、変の当日、「日向守はまず坂本に入った」と書かれている。京から坂本に行くには大津を通らないため、光秀は大津には行っておらず、信長父子を討った者は別の人物と主張する。
 
=== 従犯存在説 ===