「史上最大の作戦」の版間の差分
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独軍情報部のマイヤー大佐は、占領下のフランスにイギリスのBBC放送が送っている各メッセージの分析を行いながら、ヴェルレーヌの詩≪秋の歌≫が放送されたことに注目していた。前半の一節「秋の日の ヴィオロンの ためいきの」{{efn|「秋の日の ヴィオロンの ためいきの……」は、[[上田敏]]が訳詩集『[[海潮音 (詩集)|海潮音]]』で行った訳で、映画『史上最大の作戦』の公開時の字幕はこの訳が使われていた。その後テレビでの日本語版やBSテレビで放映の字幕では、『海潮音』によるものではなく、直接翻訳をおこなったもの(例えば「秋のバイオリンの長いすすり泣き」)が使われている。}}が数日間にわたって放送されて、次の後半の一節が放送された時は24時間以内に連合軍の上陸が始まると予測していた。そして独西部軍参謀総長ブルーメントリット大将([[クルト・ユルゲンス]])から西部軍最高司令官ルントシュテット元帥([[パウル・ハルトマン]])に警戒情報を出すように要請したが、元帥はラジオから流されるヴェルレーヌの詩だけでは警戒情報は出せないと却下した。ロンメルは6月に入ってから悪天候が続きで連合軍の上陸はないと判断してベルリン行きを決めた。その時に自宅の妻に贈る誕生日のプレゼントを持って行く。
6月5日、イギリスに
外の雨を心配そうに窓から見ながら英空軍気象部スタッグ大佐は各気象情報から天候が回復すると判断して上層部に伝えた。独軍第84軍団長マルクス大将は軍内部の議論の場で、上陸地点を英仏間が近いカレー付近と予想する向きが多いことに異論を述べて、一番距離が遠いノルマンディーの可能性が高い、そしてこういう荒天の時が一番いい、しかしアイゼンハワーは出来ないだろうと語った。だが連合軍最高会議でアイゼンハワーは最終判断として不安ながらわずかな好天の機会を逃さず決行することを告げた。ただちに待機していた部隊に次々と命令が伝達され、空挺部隊は降下の準備を初め、船上の部隊も上陸のための準備に取り掛かった。
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6月6日午前0:11、ノルマンディー上陸作戦は、英軍第6空挺師団ハワード少佐([[リチャード・トッド]])率いる部隊によるグライダー降下で始まった。オルヌ川にかかる橋を確保するため、橋を夜襲で無傷で確保して、昼に海岸からやって来る本隊が合流するまで死守する任務であった。一方レジスタンスのメンバーはフランス国内の通信網の破壊活動に入った。独第7軍参謀総長のペムゼル少将([[ヴォルフガング・プライス]])は、各将軍たちが後方のレンヌで開かれる机上演習に参加することが気になって足止めをさせた。彼は連合軍の上陸がいつも早朝であることを気にしていた。
午前1:07、カーン付近に英軍第6空挺師団がパラシュートで降下を開始した。その中には自由フランス軍の部隊もおり、レジスタンスと協力して走って来た軍用列車を爆破した。独軍マルクス大将のもとへ
午前2:03、サン・メール・エグリーゼは交通の要衝で米第82空挺師団の目的地であった。計画では市内ではなく市外に落下傘降下するはずであったが、一部の
ノルマンディーの沿岸砲台で警戒に当たっていた独軍第352師団沿岸砲兵隊指揮官プルスカット少佐([[ハンス・クリスチャン・ブレヒ]])は、夜が明けて海の向こうに信じられないほどの数の艦船が迫っていることを発見して、本部のオッカー中佐 ([[ペーター・ファン・アイク]])に電話で伝えたが、間もなく猛烈な艦砲射撃が始まった。そしていよいよ本隊の上陸が始まった。レジスタンスの破壊工作で電話が通じず、やむなくオッカー中佐は伝令を走らせるが、連合軍の空襲を受けるために街道の移動もままならなくなった。
午前6:32、オマハ海岸にコータ准将以下の米軍第29師団が上陸開始。やがて激しい独軍の銃砲撃に海岸から一歩も踏み出せなかった。午前6:44、ユタ海岸に副師団長セオドア・ルーズベルト・ジュニア([[ヘンリー・フォンダ]] )准将以下の米軍第4歩兵師団が上陸。しかしまもなく上陸予定地から2キロ南であったことが分かったがそのまま進軍した。午前6:49、ゴールド海岸とジュノ海岸に上陸した部隊は独空軍2機から空襲を受けた。この時、制空権を失っていた独空軍は[[ヨーゼフ・プリラー]]大佐指揮する2機しか
ベルリンの自宅に戻っていたロンメルは至急の電話でノルマンディー上陸を知って「私が油断した」と呟いた。最高司令部ではヒトラー総統が起きて事態を知り激怒して、ルントシュテットが望む機甲師団の派遣の話が出来ないとの連絡を受けてブルーメントリットは元帥から総統へ直接要請するように進言した。しかし元帥は「ボヘミアの伍長{{efn|第一次世界大戦の折、参戦したヒトラーは当時伍長であった。職業軍人であるドイツ軍将校から見れば、徴募兵に過ぎなかった総統の指揮下にあることに不満があり、そのことを揶揄するために使う言葉であった。この揶揄を初めて使ったのは時の大統領ヒンデンブルクで、ヒトラーを[[ボヘミア]]出身だと勘違いしていたことから。のちに「オーストリアの―」と改めている。なお他の戦争映画でもこの「ボヘミアの伍長」という台詞は使われている。}}に電話など出来ん」と却下した。
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スオード海岸に上陸したロバット卿の英軍コマンド部隊は、バグパイプの音色を響かせながらオルヌ川の橋に達して、英軍第6空挺師団ハワード少佐は任務が達成したことでホッと一息をついた。同じスオード海岸に上陸したフィリップ・キーファ中佐([[クリスチャン・マルカン]])率いる仏軍コマンド部隊はウイストレアム市街に突入して、カジノに閉じこもる独軍と激戦の上に戦車まで投入して攻略した。
独第7軍参謀総長ペムゼル少将は「空軍はどこにいるんだ」と嘆くが、しかし彼はオマハで一歩も進めぬ連合軍の動きを見ながら、中央部では依然独軍が支配しており、上陸地点で上陸部隊が釘づけの状態であるのを見て、ロンメルが言った通り、海岸線に上陸部隊を食い止め続ければ上陸作戦を失敗させられることを感じていた。一方オマハ海岸では死屍累々の様相を呈して、撤退を考える将校もいたがコータ准将は頑として受け付けず唯一の突破口での爆破を目指していた。連合軍司令部のロバート・ヘインズ少将([[メル・ファーラー]])とエドウィン・P・パーカー准将([[レオ・ゲン]])は独軍の機甲師団の動きがないことを訝り、オマハ海岸での膠着を心配していた。オマハが失敗すると上陸部隊が分断されてしまうからであった。米軍第82空挺師団バンダーボルト中佐は折れた脚のジャンプブーツの紐をきつく締めさせて、弾薬運搬用の手押し車に乗ってサン・メール・エグリーゼへの道を探しながら進み、やっと街に入って行った。そこで町の真上に降下してしまい、落下傘の
オマハ海岸では工兵のフラー軍曹( [[ジェフリー・ハンター]] )を中心に、突破口となるドイツ陣地の爆破作業を行った。フラー軍曹は鉄条網の爆破には成功するが、コンクリート壁爆破前に戦死してしまう、しかし別の工兵が作業を引き継ぎ、コンクリート壁の爆破に成功し、やっと進撃路が確保され、上陸部隊は雪崩のように突撃していった。この最後の突破の時にコータ准将の副官ニュートン大佐が戦死した。独軍の第84軍団本部では退却のため書類などが焼かれていた。マルクス大将は地図のノルマンディーの文字を眺めながら上陸を食い止められなかったことを悔やんだ。降下してから迷子のように戦場を彷徨った第82空挺師団シュルツ一等兵は、ある農家で墜落負傷した英軍パイロットのデヴィッド・キャンベル([[リチャード・バートン]])と出会い、お互いに戦争の虚しさを感じながら日が暮れていくのを見るのであった。6月6日が終わろうとしていたが、連合軍はノルマン
激戦で多数の犠牲者を出したオマハ海岸では、コータ准将が緊張からやっと解放されて新しい葉巻きに火を付けて、ジープで海岸から丘へ登って行った{{efn|このラストシーンで初めてバックにミッチ・ミラー楽団が演奏する史上最大の作戦マーチが流れた。}}。
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