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}}</ref><ref>『[[#あの戦争|あの戦争は何だったのか]]』 214頁。</ref>。[[1955年]]、[[東京大学本郷地区キャンパス|本郷]]に進むと、社会教育家の[[穂積五一]]が主催していた「新星学寮」に入寮。アジア各国からの留学生の世話を始める<ref name="mofa">[http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/13/ear_0607.html 日経新聞主催「アジアの未来」 杉浦副大臣講演 平成13年6月7日 | 外務省ホームページ]</ref>。[[1956年]]、[[ハンガリー動乱]]が勃発。「旧[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]の戦車が市民を抑える姿を見て」社会主義思想から心が離れる<ref name="asahi20180413" />。
 
[[1957年]]3月、穂積の指導のもと東大アジア学生友好会を結成<ref name="mofa" /><ref name="abk">[http://www.abk.or.jp/association/history.html 沿革|公益財団法人 アジア学生文化協会]</ref>。同年に大学を卒業し[[川崎製鉄]]に入社するも、穂積に呼び戻され1年で退職<ref>{{Cite bookname="washite-366-367">『[[#和して|和して同ぜず―杉浦正健対談集]]』 366-367頁。</ref>。[[1959年]]8月の海外技術者研修協会(AOTS)の設立、[[1960年]]6月のアジア文化会館の設立などに参画した<ref name="mofa" /><ref name="abk" />。
|author = 杉浦正健編著
|year = 1996-2-1
|title = 和して同ぜず―杉浦正健対談集
|publisher = シーダー企画
|page = 367
}}</ref>。[[1959年]]8月の海外技術者研修協会(AOTS)の設立、[[1960年]]6月のアジア文化会館の設立などに参画した<ref name="mofa" /><ref name="abk" />。
 
=== 弁護士から政界へ ===
川崎製鉄に同期入社し、独身寮で1年起居をともにした同僚の妹と[[1963年]]に結婚<ref>[https://asanuma-law.jp/%E6%B7%BA%E6%B2%BC%E6%BE%84%E6%AC%A1%E6%A7%98.pdf 『偃蹇 浅沼澄次』 浅沼澄次先生追悼録刊行実行委員会、1980年10月10日、568頁。]</ref>。結婚相手の父親は[[ゾルゲ事件]]において[[リヒャルト・ゾルゲ]]の官選弁護人をつとめた浅沼澄次であった{{Refnest|group="注"|杉浦の義父の浅沼澄次は1902年6月3日、[[東京府]][[八丈島]]に生まれた。1931年に弁護士登録し、[[ゾルゲ事件]]に関わったほか、[[昭和電工事件]]で[[日野原節三]]の主任弁護人も務めた<ref>{{Cite『[[#和して|和して同ぜず―杉浦正健対談集]]』 book381頁。</ref>。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]・[[東京帝国大学]]時代に[[福田赳夫]]と親友同士であったことが杉浦の人生を決定づけた<ref name="washite-382-383">『[[#して|和して同ぜず―杉浦正健対談集]]』 382-383頁。</ref>。1977年10月10日没<ref>[https://asanuma-law.jp/ 浅沼澄次略年譜 | 浅沼・杉浦法律事務所]</ref>。}}。これが縁となり「跡継ぎ」のような形で34歳から[[旧司法試験|司法試験]]の勉強を始める<ref>『[[#あの戦争|あの戦争は何だったのか]]』 217頁。</ref>。[[1972年]]、[[弁護士]]登録。[[1982年]]、[[第一東京弁護士会]]副会長に就任。
|author = 杉浦正健編著
|year = 1996-2-1
|title = 和して同ぜず―杉浦正健対談集
|publisher = シーダー企画
|page = 381
}}</ref>。[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]・[[東京帝国大学]]時代に[[福田赳夫]]と親友同士であったことが杉浦の人生を決定づけた<ref name="washite-382-383">{{Cite book|和書
|author = 杉浦正健編著
|year = 1996-2-1
|title = 和して同ぜず―杉浦正健対談集
|publisher = シーダー企画
|page = 382-383
}}</ref>。1977年10月10日没<ref>[https://asanuma-law.jp/ 浅沼澄次略年譜 | 浅沼・杉浦法律事務所]</ref>。}}。これが縁となり「跡継ぎ」のような形で34歳から[[旧司法試験|司法試験]]の勉強を始める<ref>『[[#あの戦争|あの戦争は何だったのか]]』 217頁。</ref>。[[1972年]]、[[弁護士]]登録。[[1982年]]、[[第一東京弁護士会]]副会長に就任。
 
[[1985年]]、国会議員への転身を考え始め、[[福田赳夫]]と[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]時代の親友だった[[弁理士]]の谷山輝雄が福田に杉浦を推薦する<ref>{{Cite『[[#和して|和して同ぜず―杉浦正健対談集]]』 book47-48頁。</ref>。しかし、[[愛知県第4区_(中選挙区)|旧愛知4区]]には[[清政策研究会|福田派]]の重鎮、[[中野四郎]]元[[国土庁]]長官がいた。義父の浅沼澄次が第一高等学校・東大で同期として親しかったこともあり<ref>『[[#あの戦争|あの戦争は何だったのか]]』 135頁。</ref>、福田とは浅からぬ縁があったが、中野の存在はいかんともしがたかった。
|author = 杉浦正健編著
|year = 1996-2-1
|title = 和して同ぜず―杉浦正健対談集
|publisher = シーダー企画
|page = 47-48
}}</ref>。しかし、[[愛知県第4区_(中選挙区)|旧愛知4区]]には[[清和政策研究会|福田派]]の重鎮、[[中野四郎]]元[[国土庁]]長官がいた。義父の浅沼澄次が第一高等学校・東大で同期として親しかったこともあり<ref>『[[#あの戦争|あの戦争は何だったのか]]』 135頁。</ref>、福田とは浅からぬ縁があったが、中野の存在はいかんともしがたかった。
 
そんな中、[[7月10日]]に中野が[[渋谷区]]の自宅で階段を踏みはずして入院。[[7月16日]]に容態が悪化し、翌日、酸素吸入器と人工蘇生器がつけられる<ref>『[[朝日新聞]]』1987年4月2日、東海総合面。</ref>。同年[[10月12日]]、杉浦は衆院選に向けた事務所を開設<ref>『朝日新聞』1987年4月22日、東海総合面。</ref>。[[10月21日]]、中野は急性心不全によりこの世を去った。
 
同年[[11月6日]]、第1回後継者選考委員会が開かれるも、後継候補として名前が挙がったのは知立市選出の[[愛知県議会|県議]]の[[鈴木政二]]、中野の[[公設秘書|第一秘書]]の中原義正、[[志賀重昂]]の孫で前[[特許庁長官]]の志賀学<ref>『朝日新聞』1987年4月1日、東海総合面。</ref>、安城市選出の県議の[[杉浦正行]]の4名であった<ref>『朝日新聞』1987年4月11日、4月14日、東海総合面。</ref>。ことに後援会最高顧問の鈴木熊次郎(中日本鋳工株式会社会長)は杉浦正行を強く推していた<ref>『朝日新聞』1987年4月7日、東海総合面。</ref>。岡崎市長の中根鎭夫は[[近畿財務局]]総務部長の谷川憲三の擁立に動いていたが失敗に終わっている<ref name="asahi19870423">『朝日新聞』1987年4月23日、東海総合面。</ref>。[[12月19日]]の幹部総会において、[[稲垣実男]]の選挙参謀である杉浦正行が候補から脱落。さらに[[1986年]]1月、岡崎市出身の志賀が候補から脱落。[[2月2日]]、岡崎は[[清和政策研究会|福田派]]の市議が5人しかいなかったが、自民党岡崎支部は杉浦正健の推薦を決定。[[2月6日]]、[[清和政策研究会|福田派]]幹部会で鈴木政二が中野の後継者に内定する。ところがその8日後に鈴木は内定を返上。このとき福田赳夫は鈴木熊次郎ら幹部の面々を東京に招き、「杉浦君は必ずものになる。杉浦君を頼む」と両手をついて頭を下げたと言われている<ref name="washite-382-383" />。[[安倍晋太郎]]の後押しもあり{{Refnest|group="注"|1956年初夏、杉浦はアジア人留学生への資金援助を請うため、当時自民党幹事長だった[[岸信介]]の事務所を訪れた。このとき事務所で応対したのが岸の長女の夫の[[安倍晋太郎]]であった。同年12月23日、[[石橋内閣|石橋湛山内閣]]の外務大臣として岸が入閣すると、安倍は[[毎日新聞社]]を退職し、外務大臣秘書官となって岸に仕えた。杉浦は以後もたびたび岸のもとを訪れるが、それに伴い秘書官の安倍との交流も始まった。1958年、安倍は衆議院議員に初当選。杉浦は[[海外産業人材育成協会|海外技術者研修協会]]の補助金獲得のため、毎年予算時期になると安倍の世話になったという<ref name="washite-382-383" /><ref>『[[#和して|和して同ぜず―杉浦正健対談集]]』 21-22頁。</ref>。安倍が領袖の福田ともに杉浦を中野四郎の後継として推したのはこうした経緯があったからであった<ref>『朝日新聞』1987年4月17日、東海総合面。</ref>。}}、[[3月19日]]、ついに杉浦が後継者に内定した<ref>『朝日新聞』1987年4月25日、東海総合面。</ref>。選挙の軍資金として杉浦は3億円を用意した。自己資金は預金と援助のほか東京に持っていたマンションを売り払って2億円。残りは家を担保に銀行から5千万円、弁護士仲間から「有る時払い」で5千万円、それぞれ借りた<ref name="CHUNICHI19890129">『[[中日新聞]]』1989年1月29日付朝刊、1面、「カネと政治家 疲弊を切る (1) “1年生”でも経費1億円」。</ref>。
 
=== 衆議院議員に初当選 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author = 杉浦正健編著
|year = 1996-2-1
|title = 和して同ぜず―杉浦正健対談集
|publisher = シーダー企画
|page = 367
|yearref = 1996-2-1和して
}}
* {{Cite book|和書
|author = 杉浦正健