「シク王国」の版間の差分

(文法上の単純な誤記の修正)
また、ランジート・シングは領土の拡大にも力を入れ、即位後まもなくサトレジ川以西の諸ミスルを配下に治めることに成功した。彼と対立していたサトレジ川以東のシク首長はイギリスに援助を求め、[[1809年]][[4月25日]]にランジート・シングはイギリスにサトレジ川を越えることを禁じる不可侵条約[[アムリトサル条約]]を結ばされた<ref>小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.283</ref>。
 
1802年にランジート・シングは聖地アムリトサルを奪還したのをはじめ、[[1809年]]には[[ジャンムー]]を、[[1810年]]に[[ワズィーラーバード]]を、[[1812年]]に[[インダス川]]流域の[[アトック]]を、[[1818年]]に[[ムルターン]]を、[[1819年]]に[[カシミール]]を、[[1821年]]には[[ラーワルピンディー]]を、1834年にはペシャーワル征服して版図とした。
 
これらの征服活動はランジート・シングの治世を通して行われ、その版図はパンジャーブを越え、北西インド一帯にまで及んだ。征服活動で獲得した領土にはムスリムが多く、シク王国の宗教人口はムスリムが70%、シク教徒が17%、ヒンドゥー教徒が13%となっていた。