「神田青果市場」の版間の差分

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神田の青物市場は[[慶長]]の頃、[[鎌倉]]河岸の北側の湿地を埋め立て、市街地をつくり「菜市」を開いたことに始まる。この多町、須田町付近は交通の中心地で、しかも八ツ小路などの広場や空地もあり、当時の神田川、平川などの運河を利用した集荷にも条件が備わっていたこともある。
<ref>『千代田区史跡散歩』学生社、1992、203頁より引用</ref>
 
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秋葉原移転前の神田青物市場は、多町を中心にあった。多町は江戸古町の一つで、神田には22の古町があり、多町はその三番目の町だった。もともとは「田町」の表記で、この辺りは低湿地帯だったため、田を埋めてできた町と考えられる。[[慶長]]年間(1596~1615)に、田町一丁目(現在の多町二丁目)に江戸成立期からの名主である草創名主である河津五郎大夫が青物(野菜)市場を開いたのが始まり。[[明暦]]の大火(1657年)後に、分散していた各所の青物市場が集められ、大きく発展し、江戸幕府御用市場(特に、他の市場とは違い触元を申付けられていて、触元の承諾なしに他の市場は初物の売り買いができなかった)になった。100年後の[[宝暦]]6年(1756年)には青物・果物問屋が152軒を数え、[[江戸]]期では最大に膨れ上がっている。[[明治]]以降はさらに発展し、[[明治]]34年には青物・果物問屋が240軒、乾物店37軒、荒物問屋23件、荷車屋47軒、食い物屋12軒に。[[関東大震災]]後、復興事業の中、[[昭和]]3年(1928年)に貨物駅のある[[秋葉原]]に移転した。およそ270年間続いた。<ref>千代田区区民文化部「千代田まち事典」2005年3月</ref><ref>朝日新聞社会部「神田川」1982年</ref>