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=== ヨーロッパ ===
[[古代ギリシア]]や[[古代ローマ]]にも学校は存在した<ref name="syakai11" />。ギリシアの[[ギュムナシオン]]では、肉体鍛練の他に哲学、文学、国語、数学、科学、社会、音楽なども教えられていた。
 
[[ヨーロッパ]]では、[[中世]]に[[大学]]が設立されるようになった。例えば、[[1088年]]、[[イタリア]]にAlma Mater Studiorum(現在の[[ボローニャ大学]])が開設された。フランスの[[パリ大学]]は[[1100年]]頃にルーツがあるともされ、[[1215年]]には教皇インノケンティウス3世によって正式に認められた。[[1209年]]には[[イングランド]]で[[オックスフォード大学]]が開設された。[[ヨーロッパ中世]]に開設された大学の中には現在まで続くものも少なくない。中世の大学の多くで、学生は最初の6年、'''[[リベラル・アーツ]]'''を学んだ。(→[[大学#中世の大学の特徴]])
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平安時代の教育は、原則として貴族や郡司の子供らを対象にしており、一部の人々にしか門戸を開いていなかったが、[[空海]]は、『綜藝種智院式并序』を著し、全学生および教員への給食制を完備し、身分や貧富に関わりなく学ぶことのできる教育施設、あらゆる思想や学芸を総合的に学ぶことのできる教育施設を設立することを提唱した。その運営を実現するため、天皇、諸侯、仏教諸宗の高僧ら、および一般の人々などに協力を呼びかけた。そして、東寺の東にあった[[藤原三守]]の私邸を譲り受け、[[828年]]に「'''[[綜芸種智院]]'''」を開設した、とされる。綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた点で画期的な学校であったとされる。
 
[[江戸時代]]の教育は、身分ごとに武士としての教育と農民としての教育の二重の系統が見られた<ref name="syakai15">高橋靖直編『学校制度と社会 第二版』玉川大学出版局、2007年、15頁</ref>。江戸時代の初期には武士の教育は漢籍の素読や武芸の稽古などを主に家庭教育として行っていた<ref name="syakai15" />。18世紀半ばには各藩が藩校(藩学)を設置するようになり藩士の教育にあたった<ref name="syakai15" />(一部の藩では領内の庶民も教育の対象としていた<ref>高橋靖直編『学校制度と社会 第二版』玉川大学出版局、2007年、16頁</ref>)。さらに藩校での教育に物足りなさを感じたり、所与の文化環境に満足しない者は[[私塾]]や[[家塾]]に通って教育を受けた<ref>高橋靖直編『学校制度と社会 第二版』玉川大学出版局、2007年、17頁</ref>(一部の塾は士庶共学として庶民にも開かれていた<ref name="syakai18">高橋靖直編『学校制度と社会 第二版』玉川大学出版局、2007年、18頁</ref>)。一方、庶民の教育は日常的な礼儀作法、地域社会のルール、家職の知識や技術などを家庭で教育していた<ref name="syakai18" />。しかし、江戸時代中期になると貨幣経済が発達し商人層は日常的な商取引のための読み・書き・そろばんといった基礎教育が必要となり、農民層でも商品作物の栽培や販売などのための一定の知識が必要とされ、その需要から「'''[[寺子屋]]'''」と呼ばれる[[教育施設]]が多数生まれた<ref name="syakai18" />
 
[[明治]]初期に、[[小学校]]および[[師範学校]]が設立された。そのとき、[[教科書]]は江戸時代使われていた[[往来物]]と呼ばれる既存の書籍が中心だった<ref>[http://www.aichi-pref-library.jp/colle/c-meiji.html 明治期の教科書 その1](愛知芸術文化センター 愛知県図書館)</ref>。