「十月革命」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
うたのり (会話) による ID:70648817 の版を取り消し
タグ: 取り消し
編集の要約なし
6行目:
|画像説明 =『ボリシェヴィキ』 [[ボリス・クストーディエフ]](1920年)
|種類 = 労働者や兵士らによる武装蜂起を発端として始まった革命
|目的 = [[ロシア臨時政府 (ロシア)|臨時政府]]打倒
|対象 = {{flagicon|RUS}} [[ロシア臨時政府|ロシア共和国]]
|結果 = ボリシェヴィキ政権樹立
|発生現場 = {{flagicon|RUS}} [[ロシア臨時政府|ロシア共和国]] [[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]
|期間 = [[1917年]][[11月7日]] - [[1918年]]
|指導者 = [[ウラジーミル・レーニン]]
19行目:
'''十月革命'''(じゅうがつかくめい、{{lang-ru|Октябрьская революция}}、[[ラテン文字化|ラテン文字表記の例]]:''{{lang|ru-Latn|Oktiabr'skaia revoliutsiia}}'')は、[[ロシア革命]]の一局面。[[ユリウス暦]]の[[1917年]][[10月25日]](現在の[[グレゴリオ暦]]の[[11月7日]])、[[ロシア]]の首都ペトログラード(後のレニングラード、現在の[[サンクトペテルブルク]])で起きた[[労働者]]や[[兵士]]らによる武装蜂起を発端として始まった[[革命]]である。多数の労働者や兵士らを[[扇動]]した[[革命家]]らによる[[クーデター]]とも解される。'''ソビエト革命'''あるいは'''ボリシェヴィキ革命'''とも。
 
この当時、ロシアでは[[ユリウス暦]]が採用されており、現在の[[グレゴリオ暦]]と比べて日付は13日遅れている。十月革命はグレゴリオ暦によると'''十一月革命'''となるが、この記事では十月革命に統一し、日付についてもユリウス暦を用いる。
 
十月革命は、社会主義[[左翼|左派]]勢力'''[[ボリシェヴィキ]]'''により引き起こされた。一連の[[ロシア革命]]のなかでは、[[君主制|帝政]]を崩壊させ、[[立憲民主党 (ロシア)|立憲民主党]](カデット)主導の'''[[ロシア臨時政府 (ロシア)|臨時政府]]'''を成立させた[[2月革命 (1917年)|二月革命]]'''に次ぐ第二段階にあたる。
 
ボリシェヴィキはかねてから[[暴力革命|暴力による革命]]を主張しており、[[1917年]][[10月12日]]、影響下にあったペトログラード・ソビエトに軍事革命委員会({{lang|ru|Военно-революционный комитет, военревком, ВРК}})を作らせて武装蜂起の準備を進めた。軍事革命委員会の指令下にあるボリシェヴィキの軍隊・赤衛隊(赤衛軍:{{lang|ru|Красная гвардия}})は、[[1917年]][[10月24日]]にペトログラードの政府施設の占拠を開始し、[[10月25日]]に軍事革命委員会が「臨時政府は打倒され軍事革命委員会に権力が移った」とする宣言を発表した。[[10月26日]]未明には臨時政府が置かれていたペトログラードの[[冬宮殿|冬宮]]が制圧され臨時政府メンバーは[[逮捕]]された。
 
こうして[[ボリシェヴィキ]]主導の'''[[ソビエト]]'''(労働者・農民・兵士の評議会)へと[[権力]]が集中された。これに引き続いて'''[[ロシア内戦]]'''([[1917年]] - [[1922年]])が起こり、最終的には1922年に史上初の[[社会主義国家]]である'''[[ソビエト連邦]]'''(ソ連)が誕生する。
 
== 呼称 ==
36行目:
{{大言壮語|date=2018年10月}}
{{see also|ロシア革命}}
二月革命で成立した臨時政府の実権は、[[立憲民主党 (ロシア)|立憲民主党]]などの[[自由主義|自由主義者]]や、[[アレクサンドル・ケレンスキー]] ([[社会革命党]])ら協調派[[社会主義|社会主義者]]が握っていた。兵士たちは第一次世界大戦に疲れ和平を求めていた。
 
しかし、5月12日、陸軍大臣となっていたケレンスキーは、「諸君はその銃剣の先に、平和、権利、真理、正義をつけて行くのだ。ロシヤの自由な息子たちよ、固く隊伍を組んで前進せよ」と述べ、軍に積極的攻勢に出ることを命じた{{Sfn|長尾|1973|p=163}}。メンシェビキの[[イラクリー・ツェレテリ]]に代表されるペトログラード・ソビエトも、この作戦に反対しなかった{{Sfn|長尾|1973|pp=163-164}}。
46行目:
蜂起の後、[[レフ・カーメネフ]]らは逮捕され、[[ウラジーミル・レーニン]]や[[グリゴリー・ジノヴィエフ]]は潜伏を強いられて、事実上ボリシェヴィキの勢力は壊滅してしまった{{Sfn|長尾|1973|pp=284-285}}。
 
しかし、ケレンスキーは[[イギリス]]の口車に乗ってしまった夏季攻勢など見ての通り、あまりにも現実を見ておらず、そして危険過ぎることが明白なボリシェビキを[[死刑]]をしないなど甘すぎた。軍最高総司令官[[ラーブル・コルニーロフ]]がサンクトペテルブルグの進軍の情報を受けると、自身の身の回りを守る手段がないことに、あせったケレンスキーは反対意見を押し退けトロツキー等ボリシェビキを釈放し、軍の再建を依頼。トロツキーは軍を再建し、同時に同志の協力者の扇動等で、コロニコフの内部から攻撃。これが功を奏し、戦わずにコロニコフを粉砕。結局主導権を完全に握られてしまい、各地のソビエトの急進化が進んだ(ケレンスキーは[[逃亡]]){{Sfn|長尾|1973|pp=314-315}}。ペトログラード・ソビエトでもボリシェビキが多数派を占め、[[レフ・トロツキー]]が議長となった{{Sfn|長尾|1973|pp=314-315}}。
 
== 経緯 ==
=== 軍事革命委員会 ===
[[1917年]][[10月10日]](ユリウス暦)、ボリシェヴィキの中央委員会は投票を行い、10対2で「武装蜂起はもはや避けられず、その期は十分に熟した」という宣言を採択した<ref>[http://www.marxists.org/archive/lenin/works/1917/oct/10a.htm Central Committee Meeting—10 Oct 1917<!-- Bot generated title -->]</ref>。ペトログラード・ソビエトは10月12日(ユリウス暦)に軍事革命委員会を設置した{{Sfn|長尾|1973|pp=356-357}}。これは元々はペトログラードの防衛を目的として[[メンシェヴィキ]]が提案したものだったが、ボリシェビキの提案によってその目的が革命へと修正された{{Sfn|長尾|1973|pp=356-357}}。トロツキーは「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説し、あからさまに武装蜂起の方針を認めた{{Sfn|長尾|1973|pp=356-357}}。彼は権力掌握を承認させるために、[[10月25日]](ユリウス暦)に開会する予定の第二回全国ソビエト大会の時期に合わせて蜂起することを主張した。メンシェヴィキは軍事革命委員会への参加を拒否し、委員会の構成メンバーはボリシェヴィキ48名、エスエル左派([[社会革命党]]左派)14名、[[アナキズム|無政府主義]]4名となった。
 
前後して軍の各部隊が次々にペトログラード・ソビエトに対する支持を表明し、臨時政府ではなくソビエトの指示に従うことを決めた{{Sfn|長尾|1973|pp=358-359}}。
57行目:
[[ファイル:Avrora1917Petrograd.jpg|thumb|250px|防護巡洋艦アヴローラ(オーロラ)、1917年撮影]]
[[ファイル:Stormningen av vinterpalatset.jpg|thumb|250px|『冬宮への突入』、1920年の再現群像劇]]
[[10月23日]](グレゴリオ暦の11月5日)、ボリシェヴィキの指導者の一人で[[エストニア人]]の[[ヤーン・アンヴェルト]](Jaan Anvelt)は、革命後に創設された[[エストニア自治政府]]の首都[[タリン]]で[[左翼]]革命勢力を率いて武装蜂起を開始した。
 
[[10月24日]]、最後の反撃を試みた臨時政府は、忠実な部隊によってボリシェヴィキの新聞『ラボーチー・プーチ』『ソルダート』の印刷所を占拠したが、軍事革命委員会はこれを引き金として武力行動を開始した{{Sfn|長尾|1973|pp=368-369}}。
63行目:
これに対し臨時政府側の部隊は崩壊していき、一方で軍事革命委員会側は次々とペトログラードの印刷所、電信局、通信社などの要所を制圧した{{Sfn|長尾|1973|pp=3706-374}}。[[10月25日]](グレゴリオ暦の11月7日)に「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラード労兵ソビエトの機関であり、ペトログラードの[[プロレタリアート]]と守備軍の先頭に立つ軍事革命委員会に移った」と軍事革命委員会は宣言した{{Sfn|長尾|1973|p=374}}。
 
臨時政府の閣僚が残る冬宮に対する[[占領]]は25日午後9時45分、[[アヴローラ (防護巡洋艦)|防護巡洋艦アヴローラ]]の砲撃を合図に、ウラジーミル・アントーノフ=オフセーエンコ率いる部隊が進入して始まった。冬宮はコサックや[[士官学校]]生、女性部隊により防衛されていたが、ほとんど抵抗らしき抵抗はなく、26日未明の午前2時ごろに占領された。なすすべなく会議を続けていた閣僚たちは逮捕され、ケレンスキーは冬宮を脱出し最終的に国外へ[[逃亡]]した<ref>J.バーナード・ハットン (著), [[木村浩]] (翻訳) 『スターリン―その秘められた生涯』61頁、ISBN 9784061588981</ref>。
 
十月革命の公式な日付は冬宮を除くすべての政府機関が占領された10月25日(グレゴリオ暦11月7日)とされている。後に、10月25日から26にかけての出来事はソ連政府によって実際よりも劇的に描かれるようになった。イギリスのペトログラード駐在武官アルフレッド・ノックスは冬宮の守備が体をなしておらず、ほぼ無抵抗で占領された様を目撃して書き残しているが<ref>{{cite web |url=http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/RUSknox.htm |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2009年3月12日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090309041423/http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/RUSknox.htm |archivedate=2009年3月9日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>、[[1920年]]に革命3周年を記念して冬宮で上演された歴史再現群衆劇『冬宮への突入』では、冬宮占領の様はドラマチックに描かれている。以後、[[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]の映画『十月』([[1928年]])など十月革命を描いた作品でも「冬宮突入」は革命のクライマックスとされ、激しい戦闘の末に冬宮が制圧された、という描き方がなされている。
70行目:
蜂起の最中、予定通り第二回全国労働者・兵士代表ソビエト大会が開かれた{{Sfn|長尾|1973|p=377}}。投票によって選ばれた600名強の評議員のうち、300人以上をボリシェヴィキが占めた{{Sfn|長尾|1973|p=377}}。冬宮占領を待ち、大会は権力のソビエトへの移行を宣言した{{Sfn|長尾|1973|p=378}}。こうして革命は承認された。
 
しかしソビエトへの権力移行には反対勢力もあった。ソビエト大会評議員のうち、[[社会革命党]](エスエル)の[[右翼|右派]]、およびメンシェヴィキなどは、ボリシェヴィキがクーデターを起こして不法に権力を奪取したと非難し、ソビエトではなく「全権力を[[全ロシア憲法制定会議|憲法制定会議]]へ!」と主張した{{Sfn|長尾|1973|pp=377-378}}。{{要出典範囲|ボリシェヴィキに抵抗する彼らにトロツキーは「おまえたちは破産した。おまえたちの役割は終わった。おまえたちはこれから歴史のごみ箱行きだ」となじった。|date=2017年11月25日 (土) 01:38 (UTC)}}
 
[[10月27日]]、第二回ソビエト大会は、臨時政府に代わる新しいロシア政府として、レーニンを議長とする「'''[[人民委員会議]]'''」({{lang|ru|Совет народных коммиссаров}}、略してソヴナルコム)すなわち「臨時労農政府」を設立した{{Sfn|長尾|1973|pp=378-379}}。大会は全交戦国に講和を提案する「[[平和に関する布告]]」貴族・教会・地主などから土地を強制収用し土地の国有化を宣言する「[[土地に関する布告]]」を採択した{{Sfn|長尾|1973|pp=378-379}}。{{要出典範囲|ボリシェヴィキは工業を復興させ都市と農村の間で商品が円滑に交換されることを目指しており、農民の支持を必須のものとしていた。彼らは自らを労働者と農民の同盟を代表するとみなした。この観念は、[[鎌と槌|鎌とハンマー]]をあしらった[[ソビエト連邦の国旗]]や[[ソビエト連邦の国章|国章]]に表れている。|date=2017年11月25日 (土) 01:38 (UTC)}}
91行目:
== その後 ==
[[ファイル:40th anniversary of the October Revolution. First Day postmark, 2.jpg|thumb|250px|革命40周年記念切手、1957年]]
「十月革命」の成功は、ロシアを[[議院内閣制]]の国ではなく[[社会主義国]]へと進ませることになった。新政府は、ロシア国内の反ボリシェヴィキ勢力や、ロシア革命に介入した国々との戦争('''[[ロシア内戦]]''')を[[1918年]]から[[1922年]]まで続けた。ボリシェヴィキは「平和についての布告」やロシア帝国政府と列強諸国との秘密条約の暴露などをきっかけに[[ヨーロッパ]]全土で反政府運動が起き、欧州大戦から一転して欧州[[共産主義革命|社会主義革命]]に進むことを期待したが、ロシアに続いて[[社会主義]]の友邦になる国はヨーロッパには現れず、周囲を敵対国に囲まれることになった。ボリシェヴィキが進めた[[共産主義]]化・[[計画経済]]化(「[[戦時共産主義]]」)は、内戦の混乱や諸外国による[[経済封鎖]]ともあいまって経済の崩壊という結果に終わり、[[1921年]]に新経済政策([[ネップ]])が施行され軌道に乗るまで経済の混乱は収束しなかった。
 
[[アメリカ合衆国]]は[[1933年]]まで新政府を承認しなかった。ヨーロッパ諸国は1920年代初めにソビエト連邦を承認し始め、ネップの施行後は貿易関係が再開する。