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== 経歴 ==
*[[ロンドン]]南西の郊外[[ウィンブルドン]]生まれ。ロンドンの[[チャーターハウス・スクール]]に入学。このころからサークルに入って詩作を始めた。
*[[1914年]]、チャーターハウス・スクール卒業。[[オックスフォード大学]]の{{仮リンク|セント・ジョンズ・カレッジ (オックスフォード大学)|label=セント・ジョンズ・カレッジ|en|St John's College, Oxford}}への入学が決まっていたが、イギリスがドイツに[[宣戦布告]]したその2日後に従軍志願して[[フランス]]に出征する。グレーヴスの自叙伝『さらば古きものよ』によれば、大学に入るのを先延ばししたかったのと、ドイツが[[ベルギー]]の中立を犯したことに憤ったのが動機だという。
*19151[[915]]、戦場で{{仮リンク|ジーグフリード・サスーン|en|Siegfried Sassoon}}と親交を結ぶ。
*[[1916年]][[7月20日]]、砲弾の破片を受けて重傷を負う。イギリスの留守宅には戦友から「名誉ある戦死」と報告されたが一命を取り留め、帰国して静養する。
*[[1917年]]1月、自ら望んで戦場復帰する。しかしまた倒れて本国へ送還され、後方勤務となる。この年の夏から冬にかけて、{{仮リンク|ナンシー・ニコルソン|en|Nancy Nicholson}}との恋愛が発展する。
*[[1918年]]1月、ナンシー・ニコルソンと結婚する。このとき22歳。同年11月、[[第一次世界大戦]]が終わると、サスーンとともに[[反戦運動|反戦]]詩人として活動を始め、この2人に[[ロバート・ニコルズ]]を加えて「新しい[[三銃士]]」と呼ばれる。
*[[1919年]]10月、[[オックスフォード大学]]に入学、1926年に卒業するまでの7年間に12冊の詩集、5冊の詩論を発表する。また、在学中に[[エドマンド・ブランデン]]、[[トーマス・エドワード・ロレンス|T・E・ロレンス]]と知り合う。
*」[1926年]]、[[アーノルド・ベネット]]やロレンスの推薦を得て[[カイロ大学]]の[[イギリス文学|英文学]][[教授]]となり、[[カイロ]]に赴任する。
*[[1927年]]、カイロ大学を辞任して帰国する。このころには妻ナンシーとの関係が悪化していた。
*[[1929年]]5月、ナンシー・ニコルソンと離婚。二度とイギリスに戻らない覚悟で[[地中海]]西部の[[マヨルカ島]]に移住する。この地で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の女流詩人[[ローラ・ライディング]]と親交を結び、共同で出版業を経営したり、共著を発表する。
*1936年、[[スペイン内戦]]の影響により、イギリス人のマヨルカ島退去を命じられ、3年間ヨーロッパとアメリカを放浪する。
*1939年、[[第二次世界大戦]]が勃発すると、イギリスに帰国して[[歩兵]]部隊に志願するが、軍当局からは後方勤務を命じられる。戦後、再びマヨルカ島に戻り、永住する。グレーヴスの詩が認められ始めたのは、このころからである。