「第四次中東戦争」の版間の差分

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ゴラン高原方面では13時58分からのシリア空軍機による空爆に続き、14時5分、野砲・ロケット砲約300門が15時まで攻撃準備射撃の後、5個師団(3個歩兵師団、2個戦車師団後方で待機)がゴラン高原に突入した。<ref name="高井47">高井「ゴランの激戦」P47。</ref> 対するイスラエル軍部隊は停戦ライン上の警戒部隊を除けば1個機甲師団([[第36機甲師団 (イスラエル国防軍)|第36機甲師団]])、戦車数にしてシリア軍1,220輌{{Refnest|group="注"|各歩兵師団の戦車定数は240輌であり、戦車師団は250輌である。<ref>高井「ゴランの激戦」P41 - 42</ref>}}対イスラエル軍177輌<ref>Dunstan,Gerrand"The Yom Kippur War 1973 (1)"P30.</ref> である。
 
ゴラン高原北側へのシリア軍第7歩兵師団の攻撃はうまくいかなかった。第36機甲師団所属の[[第7機甲旅団 (イスラエル国防軍)|第7機甲旅団]]は停戦ライン付近の丘に陣取り、第7歩兵師団の戦車や車輌を次々と撃破したのちに「涙の谷」と呼ばれることになるこの場所で、第7歩兵師団は後方に待機していた第3戦車師団や精鋭の{{仮リンク|共和国親衛隊 (シリア軍)|en|Republican Guard (Syria)<!-- [[:ja:共和国防衛隊 (シリア)]] とリンク -->|label=共和国親衛旅団|FIXME=1}}の増援を得つつ、昼夜をわず攻撃を仕掛けた。10月9日には第7機甲旅団も稼働戦車が7輌(定数105輌)にまで低下した<ref name="Dunstan59">Dunstan,Gerrand"The Yom Kippur War 1973 (1)"P59.</ref> が、シリア軍は結局最後まで第7機甲旅団の陣地を突破することはできなかった。シリア軍は戦車260と他車輌500<ref name="Dunstan59" /> を失う。
 
これと対照的に、ゴラン高原中部・南部の攻撃を担当した第9、第5歩兵師団の攻撃は比較的順調に進んだ。こちらの守備を担当したイスラエル軍の[[第188機甲旅団 (イスラエル国防軍)|第188機甲旅団]](戦車定数72輌<ref>Dunstan,Gerrand"The Yom Kippur War 1973 (1)"P11.</ref>)は第7機甲旅団と同様、停戦ライン上てシリア軍戦車を迎え撃ったが、担当正面が広すぎ(停戦ラインは全長65Km<ref name="高井47" /> だが、うち40Kmを第188機甲旅団が担当した<ref>高井「ゴランの激戦」P56。</ref>)、6日夕方にはシリア軍の450輌に対して第188機甲旅団の稼働戦車は15輌<ref>Dunstan,Gerrand"The Yom Kippur War 1973 (1)"P43.</ref> にまで低下、シリア軍に包囲された上(夜間にシリア軍の間隔を縫って退却した)、翌7日には第188機甲旅団の旅団長、副旅団長、作戦参謀が三人とも戦死するという事態が起こった。最終的に将校の9割が死傷した<ref>葛原「機甲戦の理論と歴史」P150。</ref> 第188機甲旅団にシリア軍を止めるすべはなく、シリア軍は後方の第1戦車師団も投入してゴラン南部でイスラエル軍の防衛線を突破した。