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| 生誕 = [[永禄]]8年([[1565年]])
| 死没 = [[天正]]10年[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]([[1582年]][[6月21日]])
| 改名 = 長定<ref group="注釈">{{Efn2|信長の諱を一字もらい改名したという説がある。</ref>}}
| 別名 = 乱、乱丸、乱法師、蘭丸、長定、長康
| 戒名 = 月江宗春居士<br />瑞桂院殿鳳山智賢居士<ref>可成寺</ref><br />正翁定是禅定門
| 墓所 = [[阿弥陀寺 (京都市上京区)|阿弥陀寺]]、[[可成寺]]、[[大徳寺]]
| 主君 = [[織田信長]]
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== 名前に関して ==
文書では、「あるいは乱法師という名が用いられている[[諱]]は『[[寛政重修諸家譜]]』に'''長定'''(ながさだ)とあるが、当時の古文書の署名では成利である<ref name="家臣人名">{{Cite book|和書|author=谷口克広|title=織田信長家臣人名辞典 |edition=第2版』(|publisher=吉川弘文館、2010年)|year=2010}}</ref>。
 
== 生涯 ==
[[永禄]]8年([[1565年]])、織田信長の家臣・[[森可成]]の三男として[[尾張国|尾張]][[葉栗郡]]蓮台<ref group="注釈">{{Efn2|成利の出生当時、葉栗郡は尾張国に属しており、[[天正]]14年([[1586年]])の木曽川氾濫で流路が変わったことにより、[[美濃国|美濃]]となっている。</ref>}}に生まれる。
 
天正5年([[1577年]])5月、織田信長に[[小姓]]として弟らと共に召し抱えられる<ref name="GekitoOdagundan">{{Cite book|和書|author=|year=1990|title=歴史群像シリーズ20 激闘・織田軍団|publisher=[[学習研究社]]|pagepages=170~173170-173}}</ref><ref>『兼山記』</ref>。以後、信長の側近として活動する。天正9年([[1581年]])4月20日には[[近江国]]に500石の知行を与えられた<ref>谷口克広『織田信長 name="家臣人名辞典" 第2版』(吉川弘文館、2010年)</ref><ref name="GekitoOdagundan" />。
 
特に『信長公記』によれば、使者としての活躍も見られ、天正7年(1579年)「四月十八日 塩河伯耆守へ銀子百枚遣はされ候、御使森乱(蘭丸)、中西権兵衛相副へ下され、過分忝きの由候なり」、天正8年(1580年)「正月廿六日、森乱御使にて、濃州岐阜御土蔵に、先年、鳥目一万六干貫入れおかれ侯」などの例がある。また、母である妙向尼は織田信長と[[石山本願寺]]との争い([[石山合戦]])の和睦成立に奔走した際に、成利を通じて情報を得て信長と直談判をしたとされる。なお信長は当時、本願寺との和睦に際して「金山城下に浄土真宗の寺院を建立、子息(妙向尼の子)の一人を出家」させることを条件に和睦を提示した<ref>{{Cite book|和書|author=森嵩正|title=森蘭丸の母とその流れ~妙願寺史に沿って|publisher=近代文芸社|year=1996}}</ref>。
 
天正10年([[1582年]])、[[甲斐国|甲斐]][[武田氏]]滅亡後は[[甲州征伐]]に貢献したとして[[信濃国|信濃]][[北信地方|川中島]]に領地替えとなった兄・長可に替わって美濃兼山及び米田島を与えられた(『[[信長公記]]』)<ref>谷口克広『織田信長 name="家臣人名辞典" 第2版』(吉川弘文館、2010年)</ref>『寛永伝』には5万石とある<ref>谷口克広『織田信長 name="家臣人名辞典" 第2版』(吉川弘文館、2010年)</ref><ref name="GekitoOdagundan" /><ref group="注釈">{{Efn2|『信長公記』『兼山記』では長可に代わって金山城の城主となっており、『遠山来由記』、『[[巌邑府誌]]』では森蘭丸が[[岩村城]]を、[[団忠正]]が金山城を与えられたと記されている。</ref>}}。ただし成利は在城せず、長可の家老・[[各務元正]] が成利に付けられ、城代を務めた。
 
同年、[[本能寺の変]]において[[本能寺]]で[[明智光秀]]の軍1万に囲まれて健闘するも、信長に槍で傷を負わせた明智配下の[[安田国継]](天野源右衛門)によって討ち取られた。享年18。討たれる際、成利は白小袖を着て修善寺の平元結びで髪を茶筅髷に結っていたといわれる 。ただし、これは源右衛門本人の証言によるものであり、信長に槍で傷を負わせたという証言にも疑問が残っており<ref>『天野源右衛門覚書』</ref>確証はない<ref>『名将言行録』</ref>。『本城惣右衛門覚書』ではまた異なる記述がなされてある。<ref>『本城惣右衛門覚書』</ref>さらに[[ルイス・フロイス]]の『[[フロイス日本史|日本史]]』では信長はしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自ら部屋に入り、襖を閉じてそこで自害したとされている。このように信長や成利の最期も諸説が入り乱れており、確たる事実は明らかになってはいない。
 
== 人物像・逸話 ==
* 信長は爪を切り終えると扇子の上に爪を載せて、成利に捨ててくるように命じた。成利は命令に従って次の間に移ると爪が9つしかなかった。このため成利は信長の部屋に戻って残りの爪を捜したという<ref name="GekitoOdagundan" />。
* あるとき、信長は成利に隣の座敷の障子が開いているから閉めてくるように命じた。実際には座敷の障子は閉まっていたが、成利はそのうちの1つの障子を自ら開けて、ぴしゃりと音を立てて閉めた。その上で信長に閉まっていた旨の報告をし、音がしたのはどういうわけかと問う信長に、開いていると信長が言ったにも関わらず閉まっていたとあっては信長の粗忽と思われるから、閉めた音を周囲に聞かせたのだと言ったという<ref name="GekitoOdagundan" />。
 
 
== 遺品の甲冑について ==
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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{{Reflist|group="注釈"}}
 
=== 出典 ===
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== 外部リンク ==
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* [http://www.spy.ne.jp/~satomako/index.html 森家資料調査会] 史料・史跡を調査する会
 
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[[Category:森氏|なりとし]]
[[Category:戦国武将]]