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天文19年(1550年)、武田信玄の三女(四女または五女との異説あり)として生まれる。
 
[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])に[[木曾義康]]が[[武田氏|甲斐武田氏]]に降伏し、信玄は[[信濃国|信濃]]と[[美濃国|美濃]]・[[飛騨国|飛騨]]の国境を守る重要拠点を支配する[[木曾氏]]の存在を重く見て、義康の嫡男・義昌の正室に真理姫を与えて<ref>{{Citation|和書|editor=日義村誌編纂委員会|title=日義村誌 歴史編 上巻』(|year=1998年、243頁)|page=243}}</ref>、[[木曾氏]]を親族衆としている。真竜院の輿入れに際しては付属して千村備前守・山村新左衛門の両名が派遣され、真竜院の側近・目付としている。義昌との間には嫡男・[[木曾義利|義利]]らが生まれている。なおこの真竜院の輿入れについては同時代の確実な史料では確認することはできない<ref>{{Cite book|和書|author=笹本正治|authorlink==笹本正治|title=信濃の戦国武将たち』(|publisher=宮帯出版社、2016年、210頁)|year=2016|page=210}}</ref>
 
しかし[[天正]]10年([[1582年]])、[[織田信長]]による[[甲州征伐]]が始まると、夫の義昌が兄の勝頼から離反して信長と結んだため、武田軍は人質だった子供を新府城にて処刑した。そのため、自ら義昌と離別して木曾山中に隠遁し、三男・義一<small>(よしかづ)</small>と暮らしたといわれる。義利が[[徳川家康]]に[[改易]]されたのちには、木曽黒沢へ隠棲したとされる<ref name="小高">{{Cite journal|和書|author=小高春雄|title=旭市東漸寺の伝木曽氏石塔について」(『|journal=房総の石仏|issue=20号、2010年)|year=2010}}</ref>その折の心情を切々と訴え哀れを誘う書状が木曽に残されている。
 
正保4年(1647年)に死去した。享年98<ref>小高春雄「旭市東漸寺の伝木曽氏石塔について」(『房総の石仏』20号、2010年)</ref>。眞龍院殿仁栄宗眞大姉。三岳村黒沢に墓とされる石塔が現存している<ref> name="小高春雄「旭市東漸寺の伝木曽氏石塔について」(『房総の石仏』20号、2010年)<" /ref>
三岳村黒沢に墓とされる石塔が現存している<ref>小高春雄「旭市東漸寺の伝木曽氏石塔について」(『房総の石仏』20号、2010年)</ref>。
 
== 生みの母 ==
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== 脚注 ==
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* 日義村誌編纂委員会『日義村誌 歴史編 上巻』(1998年)
* 笹本正治『信濃の戦国武将たち』(宮帯出版社、2016年)
* 小高春雄「旭市東漸寺の伝木曽氏石塔について」(『房総の石仏』20号、2010年)
 
== 関連項目 ==
* [[おんな風林火山]](1986年 TBS 演:[[小川範子|谷本重美]]→[[比企理恵]])
 
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[[Category:武田信玄の子女]]
[[Category:木曾氏]]