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激しさを増す社共対立は、同じく反社会民主党の姿勢を打ち出す[[ナチス]]を結果的に利することになった。[[世界恐慌]]下でこうした左派政党内の対立がみられたことは、[[大衆]]の彼らへの失望とナチスへの期待を助長させた。また、ナチス政権成立の直前までドイツ共産党とドイツ社会民主党の合計議席数はナチスを上回っており、両政党が連携していればもっとファシズムに対抗する効果的な方策を打ち出すことも可能であった。しかしドイツ共産党の指導者[[エルンスト・テールマン]]は「ナチスに政権を取らせよ。ナチスには政権担当能力などなく、そうすれば明日には共産党が政権を取るだろう」と語っていた。結果的には、1933年に[[ヒトラー政権]]が成立し、「ヨーロッパ最強」と言われたドイツ共産党は弾圧によって暴力的に急速に解体されることになる。ナチス・ドイツ政府は、[[1935年]]3月には[[ドイツ再軍備宣言|再軍備を宣言]]した。こうした中で、1935年のコミンテルン第7回大会では[[人民戦線]]戦術が採択され、反ファシズムのために諸勢力が結集する方針が示された。これにより社会ファシズム論は否定されることになった。
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[[スターリン主義]]
== 脚注 ==
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