「河東の乱」の版間の差分

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== 「第3次河東一乱」 ==
なお後世に成立した北条の軍記物(『[[関八州古戦録]]』、『小田原五代記』)には「天文23年([[1554年]])、義元が[[三河国]]に出兵している隙を突いて氏康が再び駿河に侵攻するが、義元の盟友である晴信の援軍などもあって駿河侵攻は思うように進まなかった」といった第3次河東一乱とみられる動きが描かれているが、この動きは今川氏や武田氏・近隣国に関する同時代史料・軍記からは確認できず、遺跡・史料研究の齟齬からも、小和田哲男、有光友学、黒田基樹他、今川氏や後北条氏、武田氏の研究者による見解は否定的である<ref>小和田哲男『今川義元』152頁。</ref><ref>有光友学『今川義元』113-117頁、264-265頁。</ref>。
== 駿州錯乱と河東 ==
{{main|駿河侵攻}}
桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれて以降、今川氏は三河松平氏(徳川氏)の自立など急速に勢力を弱め、永禄10年(1567年)武田晴信(信玄)は、駿甲同盟の破棄を宣言した<ref>池上(黒田編:2018年)、P365</ref>。
 
永禄11年、武田晴信は徳川家康と連合して今川領に侵攻、富士川を下って駿府を占領すると、北条氏政は今川氏救済を名目に河東地域に進出して武田氏に寝返った[[葛山氏元]]を排除すると、興国寺城・深沢城・長倉城・吉原城・蒲原城などを占領した。氏政は武田氏に抵抗する地元の国衆から所領の安堵を求められるが、氏政はあくまでも遠江に逃れた今川氏真の名代の形式で安堵を行っている。翌永禄12年(1569年)4月に掛川城で徳川家康に降伏した氏真夫妻は北条領に送られ、晴信も一旦撤退した<ref>池上(黒田編:2018年)、P366-368・372-373</ref>。
 
ところが、これを見た北条氏政は一転した河東を含めた今川領全域の併合に方針を転換、氏真に自分の嫡男である国王丸(北条氏直)を養子として将来的に家督を譲るように迫り承諾させ、これによって氏政は国王丸の後見として氏真の闕所処分権・知行宛行権に関与する権限を得ると共に今川氏を後北条氏の従属大名化させることに成功して、北条家臣に駿河の所領を与え始めた。ただし、今川家臣団に対する軍事指揮権は氏政が握ったものの、所領に関しては氏政ー氏真ー今川家臣という原則が守られていた。しかし、これに不満な今川氏真夫妻は徳川家康の元に逃れ、また関東地方の状況も不安定なこと(関宿合戦)からこの構想も綻びが現れた<ref>池上(黒田編:2018年)、P369-372</ref>。
 
これに対して武田晴信は大規模な反攻を開始し、北条氏の小田原城を包囲して撤退すると、追撃する北条軍を[[三増峠の戦い]]で破り、続いて駿河に再侵攻して武田氏撤退後に北条氏が押さえていた駿府城などを一気に奪って、永禄12年末には北条軍は興国寺城・深沢城まで撤退した<ref>池上(黒田編:2018年)、P369-372</ref>。その後も両者の攻防が続くが、[[元亀]]2年(1571年)に深沢城が武田氏に攻め落とされると、徳川家康との戦いに専念したい晴信と今川領併合構想が破綻した氏政の間で和解の機運が出てきた。同年11月の北条氏康の死をきっかけに両者の和平交渉は本格化し、当時伊豆国の一部と認識されていた[[戸倉城 (伊豆国)|戸倉城]]および[[黄瀬川]]以東・[[狩野川]]以南を除いた河東全域を武田氏に譲ることで甲相同盟が再締結されることになった<ref>池上(黒田編:2018年)、P373-383</ref>。
 
== 脚注 ==