「織田信忠」の版間の差分

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武田・織田間は友好的関係を保ち続けていたが、永禄年間に武田氏は織田氏の同盟国である[[徳川家康]]の領国にあたる三河・遠江方面への侵攻を開始し、[[元亀]]3年([[1572年]])に信玄は信長と敵対した将軍・[[足利義昭]]の[[信長包囲網]]に呼応して織田領への侵攻を開始し([[西上作戦]])、これにより武田・織田間は手切となり、松姫との婚約は事実上解消されている。以後、武田氏では勝頼末期に織田氏との関係改善が試みられるものの([[甲江和与]])、武田・織田間の和睦は成立していない。
 
元亀3年(1572年)1月に[[元服]]したと「[[勢州軍記]]」等にあるが、[[天正]]元年([[1573年]])4月1日付『[[兼見卿記]]』、また同年6月18日付の「朝河文書」でも、まだ幼名の「奇妙」で呼ばれており、諱の「信重」の名乗りが確認できるのは、同年7月が初見である<ref>大県神社文書</ref>。『[[信長公記]]』でも、同年8月12日付けの近江浅井攻めで出陣した記録が「奇妙」から「勘九郎」に変化しており、若干遅めだが17歳~19歳頃が元服の時期と推察される。以来、信長に従って[[石山合戦]]、天正2年(1574年)2月の[[岩村城の戦い#天正2年(1574年)の戦い|岩村城の戦い]]、天正2年(1574年)7月~9月の[[長島一向一揆|伊勢長島攻め]]と各地を転戦した。
 
=== 信長の後継者 ===