「チャールズ1世 (イングランド王)」の版間の差分
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[[三十年戦争]]で争うヨーロッパ大陸の[[カトリック教会|カトリック]]と[[プロテスタント]]諸国の仲裁役を目指した父の意向で、姉は[[1613年]]にプロテスタントのプファルツ選帝侯フリードリヒ5世と結婚、チャールズはカトリックの[[スペイン]]王[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]の娘[[マリア・アナ・デ・アウストリア|マリア]]との結婚が計画された。[[1620年]]に義兄フリードリヒ5世がプファルツを奪われたため、父の目標はチャールズ結婚の持参金代わりに義兄の失地回復に変更されたが、父と反カトリックの議会との対立、スペインの交渉先延ばし工作などでチャールズの結婚は進まなかった<ref>今井、P160、P167、塚田、P66。</ref>。
[[1623年]]2月、チャールズは父の寵臣だった[[バッキンガム公]][[ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公)|ジョージ・ヴィリアーズ]]の勧めで、父の許可を得ないまま自らスペイン旅行へ出かけ、3月に首都[[マドリード]]に着いた2人は[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]](フェリペ3世の息子でマリアの兄)の寵臣の[[オリバーレス伯爵|オリバーレス伯公爵]][[ガスパール・デ・グスマン]]と交渉した。しかしフェリペ4世は妹をプロテスタントのイングランドへ嫁がせる気は全くなく、オリバーレス伯は交渉を長引かせイングランドを戦争の圏外に置くこと、あるいは結婚でイングランド国内のカトリック教徒に対する寛容を勝ち取ることを目論んでいたため、2人は無駄に時間を費やした挙句、カトリックへの寛容と生まれてくる子供達をカトリックに育てるという条件を秘密裡に承諾したにも関わらず、スペインがプファルツを回復する気が無いことにやっと気付き、憤慨して交渉を破談し9月に帰国した。外交経験が無い素人2人組の外交は半年が空費され、相手から一方的に条件を呑まされる寸前になり失敗に終わった<ref group="注">しかし皮肉にも、帰国した2人は婚約破談により、反スペインで沸き立っていた民衆に歓迎された。この好意を当てにした2人は議会召集をジェームズ1世に進言、
スペインに振り回されたことに怒った2人は反スペイン派となり父の平和政策を覆し、[[1624年]]2月に開会された議会の好意的な姿勢に支えられスペインへ戦争すべく新たな同盟相手を求めた。そのため[[フランス王国|フランス]]王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]の娘で[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]の妹[[ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス|ヘンリエッタ・マリア]]とチャールズの結婚が進められたが、外交の素人バッキンガム公はスペインの時と同じ失態を繰り返し、フランス宰相[[リシュリュー]]との交渉で譲歩を強いられ、子供達をカトリックに教育、カトリック教徒への寛容などスペインと同様の条件を承諾した。同盟は成立したがイングランドの中途半端な対応でフランスがイングランド軍上陸を禁止、軍は疫病で自滅する羽目になり同盟の見通しは早くも不鮮明になり、イングランド国民はカトリック寛容を警戒し王家と国民の間に亀裂が生じた<ref group="注">元々戦争に反対していたジェームズ1世はスペインを刺激することを避けるため介入、同盟により出兵したイングランド軍に大陸のスペイン領通過を禁じた。これはフランスのイングランド軍上陸禁止に繋がり、ひいては準備不十分のイングランド軍がろくに戦わないまま疫病で自滅という惨めな結果をもたらした。今井、P170 - P171。</ref><ref name="松村136">松村、P136。</ref><ref>森(1986)、P407、今井、P168 - P171、塚田、P68 - P69。</ref>。
=== 王位継承 ===
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無議会政治の間チャールズ1世は外交を親フランスに切り替え1628年にフランス、[[1630年]]にスペインと和睦し三十年戦争から手を引いた。内政では財政再建のため[[国王大権 (イギリス)|国王大権]]を濫用、トン税・ポンド税・船舶税などを国民から強引に徴収、[[星室庁]]・高等宗務官裁判所などを使い反対派を処罰、新たな側近として[[トマス・ウェントワース (初代ストラフォード伯爵)|トマス・ウェントワース]](後に[[ストラフォード伯爵]])、[[カンタベリー大主教]][[ウィリアム・ロード]]を取り立て、ロードの助言で宗教をイングランド国教会統一に乗り出し、[[ピューリタン]]を弾圧した。だがロードの政策がスコットランドにも国教を強制するにおよんで、各地に反乱が起きた。一方ストラフォード伯はアイルランドへ赴任・統治したが、こちらも弾圧政策を行ったため不穏な情勢となった。[[1633年]]にチャールズ1世がスコットランド王戴冠式を行った時も儀式がカトリック的だとスコットランド国民から反感を買い、[[1637年]]に国教会の[[聖公会祈祷書|祈祷書]]押しつけに反対した国民が暴動を起こす有様だった<ref name="松村136"></ref><ref>森(1988)、P318 - P319、今井、P180 - P187、トランター、P271 - P272、塚田、P97 - P104、清水、P21 - P24。</ref>。
やがて[[1639年]]、スコットランド貴族層が[[国民盟約]]を結成し[[主教戦争]]が発生すると、チャールズ1世はスコットランドへ出兵したが自軍が不利だったため、側近の[[ハミルトン公爵|ハミルトン侯爵]](後に公爵)[[ジェイムズ・ハミルトン (初代ハミルトン公爵)|ジェイムズ・ハミルトン]]の工作で一旦休戦した
一方、チャールズ1世は議会に対抗するため[[1641年]]8月にスコットランドを訪問、盟約派の幹部である[[アレクサンダー・レスリー (初代リーヴン伯)|アレクサンダー・レスリー]]と[[アーガイル公爵|アーガイル伯爵]][[アーチボルド・キャンベル (初代アーガイル侯爵)|アーチボルド・キャンベル]]をリーヴン伯爵・アーガイル侯爵に叙爵、アーガイル侯と対立し投獄された[[モントローズ公爵|モントローズ伯爵]](後に侯爵)[[ジェイムズ・グラハム (初代モントローズ侯爵)|ジェイムズ・グラハム]]を釈放させ、スコットランドの[[長老派教会]]を認めるなど譲歩で味方に付けようと図ったが、アーガイル侯らは敵対姿勢を継続したため当てが外れた<ref>森(1988)、P319 - P320、トランター、P274 - P276。</ref>。
長期議会はピムが専制政治非難を続行、国王大権を制限するため改革法案を立法化、トン税・ポンド税・船舶税・[[星室庁]]・高等宗務官裁判所などが廃止され王権は制限をかけられ、ストラフォード伯とロードも議会に責任を問われ弾劾・投獄・処刑される事態となった(ストラフォード伯は1641年5月、ロードは[[1645年]]1月)。アイルランドでも同年10月に反乱が起こり[[アイルランド・カトリック同盟]]が結成され、イングランドが政情不安に包まれる中、11月に[[議会の大諫奏]](大抗議
=== 議会との全面戦争 ===
第一次内戦は当初、チャールズ1世の甥に当たる[[カンバーランド公]][[ルパート (カンバーランド公)|ルパート]]と[[ニューカッスル公爵|ニューカッスル伯]][[ウィリアム・キャヴェンディッシュ (初代ニューカッスル公)|ウィリアム・キャヴェンディッシュ]]の働きで10月の[[エッジヒルの戦い]]は引き分け、翌[[1643年]]6月の[[アドウォルトン・ムーアの戦い]]で勝利し互角あるいは王党派が優位であったが、
内戦の最中、チャールズ1世は反乱で背かれたスコットランドとアイルランドから援軍を求め交渉していた。スコットランドを王党派で平定すべく盟約派から王党派に離反したモントローズ伯を侯爵に昇叙、スコットランド総督に任じて帰国させた。モントローズ侯は期待に応え1644年8月に[[アイルランド貴族]]のアントリム伯{{仮リンク|ランダル・マクドネル (初代アントリム侯爵 1645年創設)|en|Randal MacDonnell, 1st Marquess of Antrim (1645 creation)|label=ランダル・マクドネル}}と親戚の{{仮リンク|アラスデア・マッコーラ|en|Alasdair Mac Colla}}と共にスコットランドで挙兵({{仮リンク|スコットランド内戦|en|Scotland in the Wars of the Three Kingdoms}})、1645年には[[インヴァロッヒーの戦い]]([[2月2日]])・[[キルシスの戦い]]([[8月15日]])で連勝しアーガイル侯ら盟約派を追い落として平定に迫ったが、盟約派の反撃に遭い[[9月13日]]の[[フィリップホフの戦い]]で敗れ、スコットランド平定はならなかった<ref group="注">敗北後もモントローズ侯は諦めずゲリラで各地に出没、盟約派との戦いを続けていたが、1646年にスコットランド軍に捕らえられたチャールズ1世が軍解体を命令したためそれに従い、[[ノルウェー]]へ亡命した。ウェッジウッド、P578 - P582、P629、P637。</ref><ref>トランター、P276 - P280、ウェッジウッド、P374 - P378、P426 - P432、P495 - P502、P517 - P518。</ref>。
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