「ゲルニカ爆撃」の版間の差分

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'''ゲルニカ爆撃'''(ゲルニカばくげき、{{lang-eu|Gernikako bonbardaketa}}, {{lang-es|Bombardeo de Guernica}}, {{lang-en|Bombing of Guernica}})または'''ゲルニカ空爆'''(ゲルニカくうばく)は、[[スペイン内戦]]中の1937年4月26日、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[コンドル軍団]]がスペイン・[[ビスカヤ県]]・[[ゲルニカ]]に対して行った[[絨毯爆撃|都市無差別爆撃]]である。野獣先輩
 
[[ゲルニカ]]にはバスク地方の自治の象徴であるバスク議事堂と[[ゲルニカの木]]があり、歴代のビスカヤ領主がオークの木の前で[[フエロ]](地域特別法)の遵守を誓ったことから、ゲルニカはバスクの文化的伝統の中心地であり、自由と独立の象徴的な町だった<ref name=ooizumi33>大泉(2007)、p.33</ref>。フランスの思想家である[[ジャン=ジャック・ルソー]]は、「ゲルニカには地上で一番幸せな人びとが住んでいる。聖なる樫の樹の下に集う農夫たちがみずからを治め、その行動はつねに賢明なものであった」と書いている<ref>川成洋『スペイン 未完の現代史』彩流社, 1990年, p.124</ref>。この爆撃は[[焼夷弾]]が本格的に使用された世界初の空襲であり<ref name=kano71>狩野(2003)、p.71</ref>、「史上初の都市無差別爆撃」や「史上初の無差別空爆」<ref name=ooizumi34>大泉(2007)、p.34</ref><ref name=watabe135>渡部(2004)、p.135</ref><ref name=ikari55>碇順治『現代スペインの歴史』彩流社、2005年、p.55</ref>とされることもある。この爆撃は敵国民の戦意をそぐために行われる戦略爆撃の先駆けと考えられており、戦略爆撃は第二次世界大戦で本格化した<ref name=arai4>荒井(1991)、p.4</ref>。コンドル軍団はこの作戦を'''リューゲン作戦'''(Operation Rügen)という作戦名で呼んだ。